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コラム December 2014
December.01 2014 TOKYO/JAPAN
Mon Dec 01 2014 00:00:50
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コラム December 2014


『Last Knights』Vol.007 December 5 2014



■第7回「アクションシーンの重要性」
「アクションシーン」って、本当に難しいんです。
でも、みんな好きな要素だから手が抜けない。
(日本の映画ファンはアクション目当てでもないのかな?
映画を見に来る人自体は女性のほうが多いらしいですからね。)

今回、アクションの撮影は専門の別チームに撮ってもらいました。
「セカンドユニット」と言ってアクション専門の監督がいて、撮影も別。
もちろん、俺が最初の段階で絵コンテを描く。
打ち合わせをして「こういうふうに撮ってくれ」とお願いするわけです。
そうすると、素晴らしい素材をたくさん撮ってきてくれるので、それを編集していくんです。

今まではそうじゃなかった。
『GOEMON』や『CASSHERN』のときを振り返ると、
本当にがっぷり四つになって、非常に悩みながらやっていました。
とくに『GOEMON』のときはかなり綿密にやっていましたね。
CGで一回全部(映像パターンを)起こしてから、
「(俳優たちっに)この通りにやってくれ」と動きを細かく指示したり。

今回、アクションについては、全面的におまかせしました。
撮影のとき、俺はうしろで見ていましたけど、同軸で別の撮影をしていますからね。
もう「信頼してまかせている」感じ。
できあがったものを見て、やっぱりプロはすごい、と素直に思いました。

(つづく)


「幸せ」のハードル December 5 2014



■「幸せ」のハードルが上がりすぎている
―—最近、周囲に「Facebookを見ると落ち込む」という人が結構いまして。年代も20代〜40代で幅広いんです。聞けば「みんなと比べて自分は幸せなんだろうかと思ってしまう」そうなんです。一方、一見朗らかに投稿している人も「なんとなく(話を)盛ってしまう」という人もいて。「自分は幸せなのか」と疑問を持ったり「幸せでありたい」と思うのは自然な気持ちだ思うんですが、今は「幸せだと思われたい」という気持ちもからんでいて、いっそう複雑になっているんじゃないかなと思うのですが……。現代における「幸せ」って、なんなんでしょうか。また、どうすれば幸せになれるんでしょうか?

まず、俺たちはそもそも「幸せ」になりえるのでしょうか。

経済的な話で見てみると、今はどんどん苦しい社会に突入しているわけですよね。物価は上がっているにも関わらず、賃金の低い人はさらに下がったりして、どんどん所得が多い人と低い人の格差が開いていくし。

そういう現実に対して、「幸せ」の期待値だけが高くなっていってる気がします。たとえば、戦後間もない頃であれば、もっと期待値は低かった。ほとんどの人が貧乏で、ごはんさえろくに食べられなかったからこそ、お腹いっぱい食べられるだけで幸せになれた。でも、今やそれだけでは全然足りません。「こういうものを持ってないといけない」「こういう生き方でなければいけない」というように、社会によってどんどん条件づけられていって「幸せ」のハードルがものすごく上がっていると思うんです。

そのハードルの高さに、実際の生活水準がついていかない。理想と現実のギャップがものすごく大きくなっているんじゃないか、と俺は思うんです。

たとえば、恋愛や結婚も、昔と比べて、相手に求める条件のハードルが上がっていますよね。日本を含めて先進国の女性って、みんな可愛いんですけど、逆に言うとそうでないと許してもらえない。それだけ努力を強いられているということでしょう。化粧もしなくちゃいけないし、ダイエットもしなくちゃいけない。場合によっては整形もする。とにかく、きれいでいることを強いられている。男性も同じで、年収はこれくらい、肩書きは正社員、イケメンじゃないといけないとかね(笑)。

でも、うちのオヤジたちの年代なんか、お見合いで一度会ってそのまま結婚することなんて普通だったわけじゃないですか。(今の恋愛やお見合いほど)ハードルが高くなかったと思うんですよ。「真面目で働きもの」とか、そういう条件をクリアするだけで結婚できた。結婚相手の条件を「年収1千万以上」なんていう人もいまだにいますけど、そんな人、もう全体の数%。「幸せな結婚」のイメージが、ほとんど実現不可能なものになっちゃってる。

「幸せ」って結局のところ「自分が思う期待」に対する結果なわけでしょう。期待通りにいったときに「ああ、幸せだな」って思うけど、そうでなければ「ああ、こんなんじゃダメだ」と思ってしまう。いくら稼いでも「これくらいでいいや」と思えなければ不幸になる。幸せのハードルが、どんどん上がってしまっいて、そのギャップが苦しいというのはあるでしょうね。

■誰かに肯定されないと、自分を肯定しづらい

あとはみんな、たぶん自分の中で幸せの定義があいまいなんだと思います。ハードルだけが上がっていて、自分を肯定しづらい。だからつらくなってしまうんじゃないかなと。

Facebookでえんえんと幸せそうな日常をアップするというのは、いわば強迫観念でやってしまっている場合もあるんじゃないでしょうか。自分の存在を肯定したいという気持ちはみんなあるでしょうけど、そのときに自分を自分で認めるだけじゃ足りなくて、第三者からの肯定を必要としている。ほかの誰かに存在を認められてないとダメってことですよね。そうしないと、劣等感にさいなまれたり、孤独感に潰されてしまう。

――ただ「人に認められたい」という気持ちは、おそらく昔からみんな持っている普通の感情ですよね。

その感情って本当に必要なのか? ということをもう一度考えてみてもいいんじゃないでしょうか。というのも、みんな「認められたい」という気持ちがある一方で「自分らしくいたい」という気持ちも強いじゃないですか。

――そうですね。

まさにサッカーの日本代表が「自分たちのサッカー」という言葉を使っていて「自分たちのサッカーをしたい、でも勝ちたいんだ」ということを言ってましたけど。

「自分らしくいたい、でも、認められたい」って言われても、俺は正直よくわからないんです。 あなたが幸せになれる道は一体どっちなんですか? と聞きたくなる。

もう一度、「生きているだけで運がいいんだ」くらいのスタート地点に戻ったほうがいいのかもしれないですね。たとえば、北朝鮮やパレスチナで日々の暮らしに困っているような人たちからすれば、メチャクチャ幸せですよね、ということ。相対的な話をしはじめると、きりがないとは思うんですけど。

誰かがそういうことをきちんと言っていくべきなんじゃないかと思っています。もう、多くの人は気づきはじめてるんじゃないかと思いますけれども。

■「いいね!」がお金やモノと同じになる時代に

ツイッターやFacebookなどのSNSでは、どれだけ「いいね!」を集められるか、フォロワーが何人いるかということが重要になってますよね。よくも悪くもお金と同じ概念になってしまっている。実際、その数値がそのままお金に変わるくらいの価値があって「口座にどれくらい金を持っているか」で人を判断するように、「フォロワー数」で人を判断するようになっている。

そうなると、ウェブサイトはトラフィックをあげればいい、アクセスを稼げればいいということに重きをおいて運営され、コンテンツが作られることになります。発信する個人も「自分がどうなりたいか」ということよりも「どれだけその数値を稼げるか」ということに重きをおくようになってしまっている。みんな「どれだけ(評価を表す数値を)持っているか」という問題にばかり意識がいっていて、「そもそも、何を持ちたいのか」という問題は置き去りになってしまっている。

――以前、映画のコーナーで紹介した『ファイトクラブ』は「モノに囲まれる生活」に縛られていた人が、それをどんどん捨てていく話でしたが、今はモノだけじゃなくて、人からの評価に縛られ過ぎということですか?

それらがないと、自分で自分を肯定できないということですよね。俺にもそういうところはあるんですけども。

「ツイッターでたくさんリツイートされるとうれしい」と言うのは「人に殴られて自分を肯定する」みたいなこと。そこで自分の存在を知りうるわけじゃないですか。でも、それもしょせんは強迫観念で、くだらないものを全部排除していく中で、本当に重要なのはなんなのか気づく、というのがあの(映画の)話だったはずなんです。

ツイッターでリツイートされると、自分が力を持ったような錯覚に浸れるわけですよね。しかし、そこで「なんでもいいからとにかくセンセーショナルなものを出してお金を稼ごう」という思って広まるのと「社会がよくなるんじゃないか」と思って発信したものが広まるのとでは、見た目は一緒でもまったく違うでしょう。前者は「見た人が間違えてクリックしてくれれば、それでいい」という感じ。でも、後者にはその発信によって何かを変えたいという、動機がある。

もうそろそろ、「広まったもの勝ち」じゃなくて「何を広めようとしているのかが問われる」時期なんじゃないでしょうか。「自分(たち)が得すればいい」じゃなくて 「みんなで仲良くしていこう」ということ。

今まではずっと前者のほうが勢力が強かった。「自分(たち)だけがいい」という考え方で、誰かに多少害が生じようが、シェアされればいいという風潮が強かったと思うんですよ。でも、これからは後者の時代になるんじゃないかと思っています。

■自分を幸せにするのは評価じゃなくて「動機」じゃないか

「自分さえよければいい」のか「みんなにおすそわけ」なのか。別にどちらの生き方がいい、悪いということはないし、ジャッジするつもりもありません。ただ動機って、結局自分にかえってくる。「自分さえよければいい」だと、結局その人はそれで幸せなのか? という問題が出てくるんですよ。

何か社会に還元されるのであれば、その行動の動機がなんであろうと「社会的には」いいと思うんです。たとえば、ある人が「自分が得をしたい」という動機で慈善団体に多額の寄付をしたとします。それで幸せになる人がいるなら、社会的にはすごくいいことじゃないですか。

でも、「その人自身が幸せになれるか」というのはまた別の話で。それでうしろめたい気持ちになるんだとしたら、その人にとっては問題だと思うんです。

ベジタリアンの人だって「肉を食べないことで命を奪われる動物の命を少しでも減らそう」というその姿勢は素晴らしいじゃないですか。その一方で、ベジタリアンであることを発信することで「自分は他人と違うし、すぐれているんだ」と表現するために使う人もいる。そのとき、「ベジタリアンであること」は果たして、その人を幸せにしているのかどうか? 

「自分さえよければいい」という動機は、結局のところ人を分割していく。

人が何か行動したとき、その人が幸せになれるかどうかは、評価や結果よりも、その動機にものすごくひもづけられている。何のためにその行動をしたのかという、動機のほうです。だから幸せになりたかったら、評価を追い求める前に、自分の行動の中にある動機を見つめてみたほうがいい。俺はそう思います。

【今週のキリヤ語録】

・「自分らしくいたい、でも、認められたい」って言われても、俺は正直よくわからないんです。 あなたが幸せになれる道は一体どっちなんですか? と聞きたくなる。

・人が何か行動したとき、その人が幸せになれるかどうかは、評価や結果よりも、その動機にものすごくひもづけられている。何のためにその行動をしたのかという、動機のほうです。


理解不能な世界 December 12 2014


■『陽炎座』
http://goo.gl/XSrQ43
(※鈴木清順監督 浪漫三部作 DVD-BOXに収録)
1981年(日本)、139分
監督: 鈴木清順
原作者: 泉鏡花
出演:松田優作、大楠道代、原田芳雄、中村嘉葎雄ほか
※『ツィゴイネルワイゼン』と『夢二』と合わせての三部作

松田優作主演の映画です。鈴木清順さんという人には、かなり影響を受けていて。あのシュールレアリズムというか、一種の美学や文法は実際、自分の作品にも出ているかもしれない。

初めて観たときは、やっぱり衝撃でしたね。リアルタイムでは小学生だったと思うので、おそらく予告かなんかで見たあとに、何年かあとにビデオで観たのかな。『陽炎座』を観たあとに『ツィゴルネルワイゼン』も観て。「こんなことやっていいんだ!」って思いました。

映画って、自分の凝り固まっている枠をちょっとずつ広げていくようなものじゃないですか。「こういう可能性があるんだ」って。その文脈で言うと、もうひとつ紹介したい映画があります。


■『ホーリー・マウンテン』
http://goo.gl/s9dNJy
(※アレハンドロ・ホドロフスキー DVD-BOXに収録)
1973年 (アメリカ)、115分
監督: アレハンドロ・ホドロフスキー
出演: アレハンドロ・ホドロフスキー、 ザミラ・サンダース、 ニッキー・ニコルズ、 バート・クレイナー、 エイドリアナ・ページほか

まさに、価値観をぶちこわされる感じ。こういう作品を見返すと自分が撮った作品なんてまだまだ甘い、青臭いなと思ってしまう。でも、やっぱり、「理解不能な感じ」というのはおそらく影響を受けています。

これは世代的なものもあると思うんですけど、映画において「なんなんだ、これは」「こんなの見たことない」という衝撃が重要だったというか。とにかく鈴木清順さんとアレハンドロの映画が、俺の脳を拡張してくれたという感じがあります。


ついでに、もうひとつ紹介しましょう。

■『デューン/砂の惑星』
http://goo.gl/iOTM2P
1984年(アメリカ)、137分
監督: デヴィッド・リンチ
上映時間: 190分
音楽: TOTO
原作者: フランク・ハーバート
出演:カイル・マクラクラン、フランチェスカ・アンニス、ショーン・ヤング、ヴァージニア・マドセンほか

この映画の評判はさんざんで、アメリカでは批判の嵐だったんです。それで、この作品はもともとホドロフスキーが監督するはずだったのができなくなってしまって、デヴィッド・リンチがキャラクターデザインするはずだったというのも有名な話。エイリアンのデザインをしたH・R・ギーガーという人がいて、今年亡くなったんですが、彼が参加していたんですよ。
ホドロフスキーの『DUNE』(ドキュメンタリー)
http://www.kinenote.com/main/public/cinema/detail.aspx?cinema_id=72371
※参考記事
http://www.webdice.jp/dice/detail/4209/

やっぱり、鈴木清順とかホドロフスキーって『CASSHERN』のスタッフとの会話にも出てくるんですよ。「ホドロフスキーの『ホーリーマウンテン』のあのシーンの感じが・・・」とか。

「なんだ、これは」という意味不明さ、わからなさが許された時代だった。むしろそこに価値があった時代だと思うんです。でも、今はそれが価値を持たなくなっている気がしますね。


■見たことない世界の面白さ

昔から俺は「理解不能な世界」を描いたような映画、映像が好きなんです。

ずっと、音楽のPVだけが「よくわからない面白さ」や「意味不明な世界観」を許されていたジャンルだったんです。宇多田ヒカルさんのPVなんかまさにそうだったし、その表現が評価された。そういうものが価値を持った珍しい時代だった。PVって、理解されちゃダメなんです。わかりやすいオチがあったりすると、何度も見てくれないから。

邦画では『CASSHERN』がそういう意味では(「わけのわからなさ」を)許されていた最後の作品だったんじゃないかと思います。許されてないのかもしれない。それはわからないけど。『GOEMON』よりも『CASSHERN』のほうが、何度も観てくれるファンが多いんですよね。

今回の『Last Knights』に関しては、意味不明なところはまったくない。何度も見てくれる人はいないかもしれない。それは、わざとそういうふうに作ったところもあるし、もうそういう意味不明が許されないということもある。

■理解不能=不快?

たとえば、ディズニー映画の中でもだったら『ファンタジア』とかは何度も見れるタイプの映画じゃないですか。ちょっと意味不明なところがある。日本の有名なアニメ作品とかでもそういうものはあったと思うんですけど、今はそれが許されないんですよ。

たとえば、鈴木清順監督の映画みたいな作品を今、上映しようとしても無理なんじゃないかと思うわけです。

『ニンフォマニアック』とかはヒットしていますね。もちろんセックスをからめればいい、ということではないと思うけど、やっぱり何か「得するもの」じゃないと時間をさいてくれないというのはありますね。理解不能なものを、以前よりもさらに受け付けなくなっている気がします。

そもそも、作らせてもらえない。「これは意味不明だから」とチェックが入ってしまう。まるで検閲みたいです。要は、かけるお金の額が大きくなってしまうとリスクが追えなくなるということ。これについては、監督としては危険性を感じています。

「理解不能」なものを不快と感じる風潮があるように思います。音楽も理解できないものは受けつけない。椎名林檎さんなんかは素晴らしいと思います。もしかしたら、どんな意味不明な音楽でも、AKBがやれば受け入れられるのかな? 確かに、俺の作った意味不明な世界観のPVも、宇多田ヒカルさんだから受け入れられたという事情はあるでしょうね。

■「お墨つきじゃないとダメ」の時代に、新しいものは出てくるのか?

「感性が退化している」という声を聞くけど、やっぱり、価値観を壊すようなモノや作品に寛容じゃなくなっているところはあると思います。

これって、人にしても、モノにしても、みんな同じなんじゃないでしょうか。

人も「肩書きがないとつきあわない」「理解できない人には時間をさかない」とか。そういう人、結構多いような気がするんですよ。
商品も「誰かのお墨つきじゃないと手を出したくない」とか。「チャレンジしてみよう」という気持ちが、昔はみんなあったのに、今は誰もリスクをとらない。
ファッションも、オリジナリティという意味では90年代のガングロのやまんばギャルのあたりで、最後だったんじゃないかと思うんです。そのあともいろんなファッションの潮流はあるけど、あれほどのインパクトはない(笑)。誰かの、どこかからの焼き直しに感じられる。

でも、こうやって話しているうちに、いろいろ思いつくアイデアもありました。

あくまでもエンターテインメントとして観る人をとことん楽しませながら、「意味不明」をやれる可能性はあるのかもしれない。

たとえば、ミュージカルとホラーとアクションのすべてが入った映画とか(笑)。
いかがでしょう?
これは本当に今思いついただけですが、簡単に諦めずに、いろいろと考えてみることにします。


映画監督としての10年 December 12 2014



■2014年の終わりにこの10年を振り返る
ーーまだ「年末」と呼ぶには少し早いですが、2014年を振り返ってどんな年でしたか。

節目と言えば、節目だったかもしれないですね。『Last Knights』が完成したということもあるし、これから新しい活動が始まる感じもしていますし。

『CASSHERN』の公開が2004年だったので、映画監督になってから今年で10年、ということも大きいですね。今年、というよりはこの10年という感じ。振り返ると、かなり感慨深いものがあります。

ひと言で言うと、大変な10年でした。とにかく苦労が多くて、何をやってもうまくいかなかった。結婚して離婚をしたり、プライベートでも、まあいろいろありましたし。俺は15歳で渡米して、20代まではわりと順調だったんですよね。20代になってデザイナーの会社を立ち上げた頃からかな。「何をやってもうまくいかない」という時代が続いたんです。それで、30代でやっと芽が出てきた。ところが、40代はまた苦労しないといけない時代になった。だから次の10年は苦労しない10年になればいいなと思っています(笑)。

正直、映画も思ったように作れなかった、ということがあります。あまりにも、ストイックにやりすぎちゃったのがこの10年だったかもしれない。とにかく、物事がうまく進まなかったんですね。おかげで、俺もずいぶん変わりました。

10年間で3本しか作ってないですからね。映画監督としてやっていくなら、本来は少なくとも5本は撮ってなきゃいけないと思う。計画としてはもっと順風万帆に行くはずだったのが、すごく足踏みをさせられた10年だったということです。

ーーもっとたくさん撮っている予定だった?

本当は今頃、アメリカで結構すごいやつを撮ってる予定だった。(笑)——それは、全然わからないですけれども。

■順調な30代、暗黒の40代

振り返ってみると、30代はわりとうまくいっていた時期でしたね。カメラマンとしても、映像作家としても。そして映画を撮り始めて、という。だからこそ、自分を過信していた部分もあったし、それゆえにまわりへの感謝を忘れていた部分もあったかもしれませんね。

「結果を出そう」と急ぎすぎたために、傲慢になってしまって、大事なものを切り捨ててきた部分があったと思います。振り返ると「ああ、そういうことだったんだろうな」と。

ーーそれは仕事でのお話でしょうか?

仕事でも、プライベートでも。そういう部分はすごくあったと思います。結果のほうに目がいってしまって、仲間やプロセスの大切さには目が向いてなかったんじゃないか。でも、結果の先というか「なぜ結果を求めるのか」「なんのために自分は仕事をしているのか」ということはあまり考えていなかった。「とにかく勝てばいい」みたいな考え方だったんですよね。織田信長症候群みたいな(苦笑)。

もちろん「勝つこと」は重要ですよ。「勝つためには手段を選んでいてはダメだ」というのも、ある意味ではその通りでしょう。でも、結局、俺の場合はそれをやっても勝てなかったんですよ。このやり方じゃ勝てないとわかった。だから、何か別のやり方を考えなければいけないというのもあるし、同時に「勝つためにすべてを切り捨てる」というのは、ちょっと疑問視しないといけないと思っていて。だって、一番重要なのは「勝つこと」じゃなくて「幸せになること」だから。

結果を出したからといって、どうなのかと。今考えると、そんなに重要なことではなかったような気がするんですよ。たとえばアカデミー賞を受賞できたから、お金をたくさんもうけたからといて、自分の何が変わるわけでもない。むしろ自分の好きなスタッフと一緒に仕事ができることとかのほうが重要なんだなということに、あとになってやっと気づけたところがあります。

いろんな葛藤があって苦しむ中で、まったく違うものが見えてきた。10年前と今では、違う人間なんじゃないかというくらい。それまでいろんなものを欲しがっていたのが、もう何もいらない、というふうに変わってしまった。このメルマガでいつも伝えているようなことも、ここ10年で形成されてきた考え方です。そういう意味では成長した、と言えるのかもしれません。

■「ものづくり」も大事だけど、それ以前に大事なものがある

そうやって苦闘の10年を終えた今、これからも映画を撮り続けるのか、もっと言えば、これからもものづくりを続けるのかという自問自答は、ずっとあります。昨日も、蜷川(実花)さんと会って似たような話をしていたんですけどね。

「紀里谷さんが憧れる人は誰ですか」という質問をよくされるんです。俺は、まがりなりにも芸術の世界にいるから、「芸術家だとレオナルド・ダ・ビンチかな」なんて答えるわけです。映画監督なら、スタンリー・キューブリックやフランシス・コッポラの名前を挙げることが多い。でも、ガンジーやチェ・ゲバラ、キリストなんかと比べて「どっちが好き?」と聞かれたらどうか。俺は、やっぱりダ・ビンチよりガンジーのほうが、コッポラよりキリストのほうが「好き」なんですよ。

だから、芸術的なものづくりは大事だけれども、「それ以前に大事なものがある」という思いは強くなっていますね。映画やCMといった仕事は仕事として重要なんだけれども、やっぱり自分の生き方であったり、哲学であったりという部分のほうをもっときちんとしていかないといけないなと。それがこの10年ですごくわかってきました。その変化は作品づくりにも影響してきていて、以前は「かっこよければいい」「美しければいい」「迫力があればいい」と思っていたんです。今は、やっぱり作品の中に何らかの哲学がないとダメだろうと感じますし、逆のことを言えば、その哲学さえきちんとあれば、形にする必要はないんじゃないかと思ったりもする。

「クリエイティブを手段として使えばいい」とも言われるんですけど、それもちょっと違う気がしていて。カタチ至上主義のこの世界に、生き方がどんどん合わなくなってしまっています(苦笑)。

■いろんなものを捨ててきた10年だった

とにかく、自分が自由になっていく10年でした。模索しながら、いろんなものを捨てて自由になろうともがいてきた10年。結果として、完璧に自由になったかというとそうではないんだけど、ある程度のところまでは来れたなという実感はあります。

自由っていうのは、人間にとっては諸刃の剣で、自由すぎるとどうしていいかわからなくなります。柵もない、果てしない荒野が目の前に見えている感じ。あまりにも自由すぎて、どこにいっていいかわからない。これからどうするのか。とどまるのか、とどまらないのか。そういう自問自答が続いているんですよね。その問いって、究極的には「この人生を続けるのか、続けないのか」みたいなことに行き着いてしまうんです。そういう極限のところまで、かいま見てしまった。

以前は「もう山奥にこもって仙人みたいにして暮らす」か、それとも「この世界にいて自分がやれることをつきつめるか」というふたつの道しかないと思っていた時期もあったんですけど、最近は、両方やろう、と思えてきたんです。どっちの道を選べばいいのかと悩んでいたんですが、「いや、これは両方やらないとダメなんじゃないか」と。つまり仙人のような生き方をしながら、現実とも向き合っていくということ。そういう、第三の道があるという選択肢が、今まではあんまり見えなかったので、ちょっと視界が開けてきた感じはありますね。

ーー「最近、本を読まなくなった」と言う声をどの世代の方からも聞きますが。紀里谷さんは読んでいますか。

俺自身もなかなか読めなくなっています。今はやっぱりスマホがあるから1時間を読書にさくということが、なかなか難しい。あんまりよくないですよね。とにかく、情報が多いのが問題だと思う。

「モノを持たない」ようにするのと同じで、今はなるべく情報の排除をすすめていかないといけないなと思っているんです。たとえば、できることなら、Eメールとかはなくしていきたい。うちの会社は、すでに痕跡を残さないメールアプリとか使っていますけれども。

ーー本も映画も、作り手には厳しい時代なんでしょうか。

今は、みんなが誰かの時間を欲しがっているでしょう。子どもがお母さんの時間を欲しがるように。ありとあらゆる企業や人が、ユーザーの時間を欲しがっている。時間を割いてもらうには、注目してもらわないといけない。だから、炎上マーケティングなんかは子どもが「お母さん、こっち見てよ」って騒いだりいたずらをするのと原理は同じですよね。とにかく気をひくために目立つことをやる、という感じになっている。でも、それって本当に必要なの? と思うんですよね。

というのは、映画もそうなんです。「できるだけ多くの人に見てもらわなきゃいけない」というのが前提にある。それは、本当にその通りなんですけど、「とにかく注目されることに一番の価値があるんだ」というふうになってしまうと、何が本当に大事なのか、よくわからないじゃないですか。

「見て見て」って言われなくても見てもらえるようにすることのほうが本当は大事であって。

人も同じだと思うんですよ。やっぱり(高倉)健さんみたいな人が、一番いいような気がする(笑)。
「見て見て」と言わなくても、みんなに見てもらえるような生き方(あり方)が、理想なんじゃないでしょうか。

【今週のキリヤ語録】

・とにかく、自分が自由になっていく10年でした。模索しながら、いろんなものを捨てて自由になろうともがいてきた10年。結果として、完璧に自由になったかというとそうではないんだけど、ある程度のところまでは来れたなという実感はあります。

・今は、みんなが誰かの時間を欲しがっているでしょう。子どもがお母さんの時間を欲しがるように。ありとあらゆる企業や人が、ユーザーの時間を欲しがっている。


『Last Knights』Vol.008 December 19 2014



■第7回「”主役も大事だけど脇役のほうが大事”な理由」
ーー俳優さんと一緒に仕事をされるときは、人間的な相性も当然あるんでしょうか。

それは大いにありますよ。でも、みんな性格が違うのは当たり前なので、そこは監督が合わせるしかないですね。俺が学校の先生のようになって、いろんなやり方で接するということ。相性が悪いといっても「やらせてみてダメだった」というのはよっぽどのことがない限りありません。

それでも「ラスト・ナイツ」ではひとりだけ抜けてもらいました。それは、キャスティングディレクターの推薦で出演してもらったんだけど、純粋にパフォーマンスがよくなかったという理由でした。そこはシビアに判断しないといけない。

映画の恐ろしいところは、ひとりでもダメな演技をすると、すべてがアウトになってしまうということなんです。

主役級で、同じ事は滅多に起こりません。一番、気を遣うのは主役ではない俳優が、ちょっとした台詞をしゃべるとき。誰かが部屋に入ってきて、一言二言言う。意外とそれがうまくできない場合が多いんですね。これはとくに「ラスト・ナイツ」に限った話ではないんですけれども。

そういうささいなシーンに、じつは一番時間が割かれるんです。10テイク、20テイクになって時間が押してしまうときもある。

要するに、俺たちは、壮大な嘘をついているわけなんです。
でも、その嘘がばれてしまう。そうなると、映画そのものが壊れてしまう。

「俳優を見た目重視でキャスティングしちゃいけない」というのはそういう理由です。

だから、僭越ながら、俺が若手監督にアドバイスするとしたら「とにかくちょっとした脇役の人たちに一番神経を配ったほうがいいよ」ということですね。

(つづく)


映画監督を目指している人へ December 19 2014



ーー今、映画監督を目指している若い人たちに向けて、アドバイスをお願いします。10年前より正直 厳しくなっているんじゃないかと思うのですが。

厳しいでしょうね。何が起こっているかというと、映画市場で圧倒的な地盤沈下が起こっているんですよ。

新人クラスで、ある程度のバジェット(予算)がもらえるっていうのは、もしかして俺が最後だったんじゃないかと思うくらいに予算がない。

理由は3つあって。

まず、映画に行く人数がどんどん減っている。とくに日本は少子高齢化で人口が減っているわけだから。映画を見に行く人口が減っている。

次に、映画を観る手段が多様化している。わざわざ映画に行く必要もないし、(ネット配信サービスを使えば)DVDを買う必要もない。

もうひとつは、エンターテインメントがすごく多様化していて、映画以外に楽しめるものがたくさん出てきた。おもにゲームなのかなと思うんですけど。アメリカでは、テレビのドラマのクオリティが異常に上がってきているんですよ。だから「映画観なくてもドラマでいいや」ってなってしまっている。
そうなると、映画に使うお金は必然的に減っていきますよね。それによって年間で撮られる本数も限られていって、映画監督は食べられなくなっていく。

日本では、以前はVシネや日活ロマンポルノといった分野が、映画監督の登竜門になっていたんですよ。
しかし、もはや以前のようなパワーはない。どこからはじめればいいのか、わからないですよね。映画祭に出すと言っても機会が限られている。そもそも上(ベテラン)の世代がつっかえているわけですから、彼らがいなくならないと席が空かないという事情もある。新人で映画監督として売れっ子になる人って、本当にひとつまみです。

もちろん、助監督として経験を積むとか、テレビ局でADから始めるという道もあります。でも、会社に入らなければいけないとなると「まず就職活動しないといけない」「じゃあ、いい大学はいらなきゃ」みたいな話になる。それって、やっぱりおかしいと思うんですよ。学歴が問われないような職業なのに、学歴を身につけないということでしょう。サラリーマンを経ないと監督になれない、というのはいかがなものかと。実際、そういう風潮を嫌がる俳優さんもいますからね。「なんかやりにくい」と。

ですので、映画監督を目指している人に一言。あなたの未来は結構大変です(笑)。

(俺が映画監督じゃなかった場合)子どもが「映画監督になりたい」なるっていったら「サッカー選手のが確率高いんじゃないか」と言うと思います。「映画を撮れば、映画監督になることはできる、でもそれで食べていくのは大変だよ」と。だからといって「諦めろ」とは言わない。それはもう、ちゃんと頑張るしかないです。

ーー逆に今だからこその可能性は?

今はネットがありますからね。自分で映画や映像を勝手に撮ってYou Tubeで流すという手もある。俺の撮った映画のトレーラーが海外でピックアップされたのも、そういえばネットでした。ただ、ネットでも、いまや並の映像ではびっくりされないと思います。加えて、日本では「すごい奴がいるから、こいつでドラマ撮らせよう」とはなかなかならないんじゃないか。

だから、むしろ海外市場に目を向けたほうがいい。1分でもいいから、世界が本当にびっくりするような新しいものを作ってみてください!


俳優を目指している人へ December 19 2014



■映画俳優を志すというのは大リーガーを目指すということ

そもそも、俳優って、とても大変な、難しい仕事だと思うんです。なぜかというと、いい脚本にめぐまれて、いい役にめぐまれて、いい監督にめぐまれて、という前提があって、はじめて自分がいい仕事ができる可能性がある。そう簡単には条件が揃わないから、そこにいたるまでは、みんな何もないところから苦労して這い上がってくる。

世代別に区切って言うと「その人が出演するから映画を観に行く」というランクの俳優さんは男女それぞれ5人くらいに絞られてしまう。同じ世代で活躍している俳優さんが何十人といる中で、です。

実際、出演依頼する俳優を決めるときには、キャスティングディレクターがリストを出してきてくれるんですが、主役に関してはだいたい出てくる人が「固定」で決まっているんですよ。野球のオールスターのように「なるほど、この人は入るよね」というメンツで決まっている。脇役なんかだと「演技がすばらしい人がいる」とあまり有名でない人でも、入れてくる場合があるんですけどね。

主役を張れる立場にならないと、役はほとんど選べません。みんなスタートはヒーロー戦隊ものの脇役だったり、小さな舞台だったり、人によってはAVだったりする。でも、スタート地点に立たなければ、評価してもらえる場さえないってこと。そのプロセスは本当に大変なことだと思います。

プロ野球選手になるよりも難しい。日本のプロ野球は12球団あって、補欠もいれたら全部で1200人くらはいるんじゃないのかな。でも、役者で食えてる人はおそらく1200人もいないでしょう。

映画俳優になるというのは、大リーグに行くということなんですよ。ハリウッドのほうが目指す人の分母が大きいから、さらに熾烈な戦いになっています。

たまたま、20代の若いうちに監督に見いだされて、ぐんぐん売れていく人もいますよね。でも、長続きするとも限らない。残るのは本当にひとにぎりーーいや、ひとつまみですね。

■小さなスタートでいい、まず実力をつけてほしい

俳優を目指している若い子たちと話をしているとひとつ「それは勘違いだよ」と思うことがあって。彼らの多くは「いい(より大手の)事務所に入れば、いい仕事がもらえるだろう」と思っているんですよ。「それは半分は正しいけど、半分は間違っている」と言いたいんです。

確かに、オーディションに参加できる確率は上がるかもしれない。でも、どんな小さな事務所でも、たとえ事務所に所属していなくても「芝居ができる奴がいる」「九州の片田舎の劇団にすごい奴がいるぜ」なんて噂は、きちんと聞こえてきます。

それだけ、使う側も必死なんです。誰も使っていないすごい奴を日々探している。そういう噂を聞いたらすぐに「その人誰? オーディションに呼ぼうよ」という話になるし、あちこちから誘われる。そうやって、あれよあれよという間に有名になった人を知っています。

だから、これから俳優を目指す人は、大変だけど、悲観的になる必要はないよと言いたいですね。事務所の力もありますけれども、それを考える前にどうか芝居の力を磨いてほしい。映画をやっている人も、ドラマをやっている人も、みんなみんな、実力がある人を心の底から求めています。


選挙というゲームについて December 19 2014



■「そもそもルールがおかしいよね」という疑問

ーー今回の選挙についてどう捉えていますか。この収録は選挙前なので、今の時点ではまだ結果はわかっていないわけですけれども「自民党が勝つだろう」という予想が大半を占めています。

もちろん投票には行かなきゃいけないし、俺も行くつもりです。でも、結果がどうこうじゃなくて、やっぱり「選挙のシステム自体に欠陥がある」という“感じ”はありますよね。俺たちは、決められたルールの中でゲームをやっている。でも、そのルールが果たして公平なものなのかというと疑わしい。

たとえば、野球ではバッターボックスからファーストベースの距離は決まっていて、何メートル走らなければいけないと決まっていますよね。でも、それが50センチ違うだけで、ゲームのあり方が全然違ってくる。そのルールは自然に発生したものじゃなくて、誰かが決めているものでしょう。

選挙のルールだって、自明のものじゃない。時代によっても適切か不適切かも変わるはずです。なのに「ルールはこれでいいのか」という議論がまったく足りていないという気がします。みんな「どの党が勝つか負けるか」ということに注意をそがれていて「そもそもルールがおかしいんじゃないか」という疑問にたどりつかない。

確かに一票の格差の問題なんかはよく取り上げられてはいるけれども、民主主義というものがきちんと機能してない今、そもそも「選挙って何のためにやるの?」「政治家ってどうして必要なの?」とか、そういう根本的なところから問い直しが必要なんじゃないか。選挙の勝ち負けを憂う前に「プレイヤー目線」になって自明だと思っているルールについて、問い直すことが大事だと思います。

なぜ、こういうことを言うかというと、こちらがただの「観客」になってしまうと、政治がどんどん大衆を満足させるためのショーでしかなくなってしまうと思うんですよ。出来レースで勝者が決まっているのに、戦っているような錯覚を起こさせて、肝心なことは国民の見えないところで全部やってしまえという。今の選挙システムは、こう言っちゃなんですが、八百長の博打でしょう。

ーーなるほど。

難しいのは、こちらが八百長だとわかっていても、まず向こうに勝たないと八百長をやめさせることができないということ。でも、どうにかして勝って、八百長がないような仕組みにしないといけない。

ーー「まあ、しょうがないよね」というスタンスに甘んじていると、永遠に八百長が続く可能性があるということ?

おっしゃる通りです。なんていうか、やるせないじゃないですか。正せるように頑張るしかないと思うんです。

ーー八百長だと薄々わかっていても、希望を見出したいがゆえに「このゲームは八百長なんかじゃない」と信じたい心理もあるかもしれないですね。

そこはそうだと思いますね。今回の選挙も、プロレスと同じで「これはショーだ」と思ってる人もいれば「いや、勝ち負けのあるスポーツだ」と思っている人もいる。この喩え、間違ってるかな。どっちも否定するわけじゃないんですけど、自分自身が「観客」じゃなくて「プレイヤー」だったらどっちがいいですか? と聞いてみたいですね。

■政治家はロボットにとって代わられる?

よく言ってることなんですけど「代議士」というのは、もともとは「国民を代表して国政を議するための士」なんですよね。確かに、明治時代なんかの代議士には、インターネットもないですから、民意を束ねて遠路はるばる移動して、中央で主張するという役目があった。でも、今はどうなのか。乱暴かもしれないけど、それこそスカイプでどこでもつながれる、ネットでも直接意見を集められる時代に、「その役目は今、必要なんだろうか」と思ってしまうんですよ。 皮肉というよりは、素朴な疑問として。

本来、公共のために働かないといけない政治家の人たちの多くが、自分の保身やしがらみに囚われるというのはまさに矛盾してますよね。だから、もう政治の遂行については、いっそのことロボットにやらせればいいんじゃないかと思っていて。

——ロボットですか。身もフタもないですね!(笑)。

自分の保身やしがらみに囚われるのは、人間だからしょうがない。だったら、ロボットにまかせたほうが、いっそ合理的ですよ。もちろんコンセプトとかは人間が作らないといけないだろうけど、政策遂行の部分はかなりコンピューターで代替できてしまう部分もあるんじゃないかなと。それに、ロボットは自己保身も不正も無縁です。人がやると、いろんなしがらみに邪魔されて思い通りにいかないんだったら、ロボットにまかせればみんな文句ないでしょうと。

こんなこと言うと怒られるかもしれないけど、市役所・区役所とかの地方自治体の仕事も、もうほとんどコンピューター化できるんじゃないかと思うんですよね。それも含めて、国のシステムには、合理的じゃない部分が依然としてものすごく多いなと感じています。

■「一部が幸せ」と「全体が幸せ」どちらを選ぶのか

政治って、まず、「どういう世界にしたいのか」というビジョンがあって、その上に消費税や基地をどうするかという細かい議論をする意味が出てくると思うんですよ。「豊かな社会にしよう」と言っても、その「豊か」は一体何を指すのか。それを明らかにしないまま、経済成長を追及していったら、そりゃあ、格差社会になりますよ。能力のあるものが能力のないものを奴隷として扱うような社会になるようになるのも、当然だろうと思います。

「どういう世界にしたいのか」という問いの答えはそんなに難しい話じゃない。シンプルに言えば「一部が幸せになるような世界を目指すのか」それとも「全体が幸せになるような世界を目指すのか」という、二択に集約されると思っていて。

一部なのか、全体なのか。ほとんどの人は「全体」と口では言うかもしれない。でも、いざ遂行しようとすると「一部」のほうを優先してしまったりする。難しいですよね、人間ですから。

だから「全体が幸せになるような世界を目指す」なら、「それにはこういう犠牲が伴います」というのはひとつひとつ明らかにして、共有しておかないといけないわけです。そうしないと「原発には絶対反対」と言いながら「節電対策や電気料金の値上げするのはやめてほしい」と主張する人とか「未来の子どもたちのためにできることをしよう」と言いながら「自分の年金が減るのは嫌だ」と言う人が出てきちゃう。

「クラスには20人いて、パンは10個しかない。このパンをみんなで分けますか、分けませんか」というような議論を、小学生からやっておいたほうがいいのかもしれない。そういう議論をしていかないと、自分が本音でどう思っているのかも、きっと気づけない。

そこを議論して決めていかない限り、日本の政治って、迷走を繰り返していくんじゃないかなと思います。

■目盛りを調整することはできるんじゃないか

政治がわからない、政党の違いがわからないっていう人がこんなに多いんだから、たとえばさっきの基準(全体が幸せになる世界を目指すか、一部が幸せになる世界を目指すか)を数値化できれば、すごくわかりやすいですよね。

全体派を0として、一部派を100にした場合「自民党は80、公明党は60、民主党は30です」とか。この数値は適当に言ってますが、こうやって数値化すれば、ものすごくわかりやすいじゃないですか。

わかりやすいかわりに、この数値に関しては厳密に審査しないといけない。結果、数値が低すぎると誰も真面目に働かなくなったから、45くらいがちょうどいい、なんて結果が出るかもしれない。

暖房の温度のように「快適だ」と感じる数値には、人によって違いがあるように、「80の自民党が正しい」「30の民主党なんて間違ってる」というのは不毛であって、調整していけばいいんじゃないの? って。

みんなが快適だと感じる温度にそこまで幅がないように、みんなが幸せだと感じる社会にも“ちょうどいい”レベルというものがあるんじゃないかと思っています。

【今週のキリヤ語録】

・「クラスには20人いて、パンは10個しかない。このパンをみんなで分けますか、分けませんか」というような議論を、小学生からやっておいたほうがいいのかもしれない。そういう議論をしていかないと、自分が本音でどう思っているのかも、きっと気づけない。そこを議論して決めていかない限り、日本の政治って、迷走を繰り返していくんじゃないかなと思います。

・みんなが快適だと感じる温度にそこまで幅がないように、みんなが幸せだと感じる社会にも“ちょうどいい”レベルというものがあるんじゃないかと思っています。


『Last Knights』Vol.009 December 26 2014



■第9回「撮影現場では、戦場における指揮官にならないといけない」

撮影現場では、映画監督はつねに決断を迫られます。

というのは、脚本や絵コンテを詰めてから撮影に臨んでも、
当然のことながら、実際のシーンはその通りにはいかないんです。

俳優さんが予想と違う演技をすることもあるし、
俳優さん自身からの提案で、その場で変えたりすることもある。
ライティングも撮り方も、すべて変えてしまうことだってあります。
「山登り」に似ているかもしれません。「このルートで登ろう」と綿密な計画を決めて行くんだけれども、天候が変わったり、装備が壊れたりしたときには、違うルートを選択するということ。

僕はよく映画作りを「戦争」にたとえます。
実戦に入るまでは、当然緻密に計算して、プランニングして戦いに臨む。
けれど、実際に戦いが始まると、ありとあらゆることが変わってきてしまう。
だから監督に求められるのは、指揮官として、現場でどれだけ瞬時に対応するかということ。

戦場(撮影現場)では、悩む暇なんてほとんどありません。少なくとも俺の現場では。
本当に即座に、時間があったとしても数分で決断を下さないといけない。
つねに「すばやい判断」が求められる。それをやらないと、まさに命取り。

そういう意味では、映画監督って、優柔不断が許されない職業かもしれないなと思いますね。

(つづく)


”剪定”する大人 December 26 2014



ーー少し前に、ネットで選挙について問題提起した若者が「小学生になりすました」ことでバッシングされる、という出来事がありました。優秀なところもある一方、少々あぶなっかしい若者と、それに対してダメ出しをする大人たち、という構図があったように思います。紀里谷さん自身、20代前後の、今の若者に対して思うことはありますか。

今、大学生をやっている奴で仲のいい奴が何人かいて、ひとりは「部活」(Makuakeのプロジェクトなどの活動を一緒にやっているチーム)と読んでる集まりの打ち上げで会って、スピーチしてもらったんですけど、俺が「捨てろよ、そんな生き方!」みたいなことを言って、泣かせてしまったことがありました(笑)。そこからつきあいが始まった。あとは福岡にいる、VJをやっている奴もいますね。

俺が思うに、若い子たちは、もともとはみんなすごく面白いものを持っている。すごい才能を持っているんですよ。でも、大人を信じちゃったためにダメになったり、つぶれたりしちゃうだけだと思う。ほとんどつぶされちゃうというのが前提で、たまたま何人か生き残るってだけなんじゃないかな。

彼らは、本当はすでに完璧なんですよ。必要なものを持ってるんです。でも、「お前はそれじゃダメだ」という教育を受けて、それを信じこんでしまって、つまらないことになっていくということじゃないでしょうか。

ーー個人的な印象なんですが、自分たちの時代や、もっと昔の若者像と比べると、不思議なおとなしさを感じるというか、「もっと反抗してもいいのにな」ということを思うときがあるんですが、そのあたりはどう思われますか。

たとえ、そうだとしても、彼らのせいじゃないと思いますよ。基本的には大人のほうに原因がある。社会を作っていて、子どもの芽をつむようなことをしている張本人の大人が、子どもに向かって「お前らもっと反抗しろよ」と言うのって間違ってると思うんですよ。

極端な例かもしれないけど、虐待を受けている子どもって、親に抵抗したくたってできないじゃないですか。だって親が嫌がることしたら、愛してもらえないんだから。彼氏にDVされている女の子に「あなたが抵抗しないからいけないんだ」と言うのは酷でしょう。

それと同じで、大人が基本的には悪いんですよ。本当はそのままで美しかった木を盆栽にするように、幹を縛ったり葉や芽をどんどん剪定していって「この盆栽一億円ですよ」みたいに価値づけしている。それで立派な盆栽になってしまった大人たちが、今度は子どもに同じことを繰り返す、という。

ーーその論理でいくと、大人に”剪定”されない方法はあるんでしょうか?

いや、子ども(若者)のほうに、基本的に権限はないんだと思います。救いがないようだけど。たまたまゆるいところで運良く生き残った人とか、たまたま目が覚めた人はいるかもしれないけど。

ーーそういう意味で(10代で渡米した)紀里谷さんは芽をつまれまいとした?

俺は、もともと結構自由なところで育ったほうだと思います。でも、若いうちから日本を出ちゃった俺でさえ、洗脳にかかっちゃったときもあるし。なかなか大変だと思いますよ。

ーー若者に対して「もっと大人になれよ」ということはよく言われることですが。紀里谷さんは「大人にはならなくていい」と。

ならなくていいでしょう! 「もっと大人になれよ」と言う人の「大人」が、一体何を意味しているのかってことを考えていくと「妥協する人たち」のことなんじゃないかなと思うんですよ。「妥協すればするほど、大人」「妥協しろよ」ってことなんじゃないかと。もちろん、僕だって妥協することもありますよ。こういうとペシミスティックに聞こえるけど、大人になるということは、妥協する、諦める、ということなんだと思います。

俺も「紀里谷さんって、本当に子どもですよね」ってよく言われるんですけど「それっていいことじゃないの?」と思っています。逆に「大人ってあなたが言うほど、そんなにいいものなんですか」と問いたい。

「お前たちのために」「子どものために」妥協しているんだって言うけれども、果たしてそうなんだろうか? と思いますね。ーー俺にはわからないです。


人間と平和 December 26 2014



■ノーベル平和賞と平和なき世界

少し前のニュースだけど、マララさん(パキスタンの人権運動家のマララ・ユサフザイさん)がノーベル平和賞を受賞しましたね。

ノーベル賞受賞スピーチ全文「なぜ戦車をつくることは簡単で、学校を建てることは難しいのか」
http://www.huffingtonpost.jp/2014/12/10/nobel-lecture-by-malala-yousafzai_n_6302682.html

この前、人と話していて「確かに素晴らしいことだけど、ノーベル平和賞って、そもそも何のためにあるんだろうね?」という素朴な疑問を共有して。つまり、マララさんのような活動を素晴らしいと世界が賞賛しているのに、なぜ、世界は彼女たちの主張のようにならないんだろうかと。

世界がもし本当に平和だったら、おそらくノーベル平和賞は存在しないですよね。これは間違いない。世界が平和じゃないからこそ、この賞は存在している。じゃあ、何のためにあるんだろう? と。不思議じゃないですか。それについて、なんでみんなもっと考えないんだろう、と思うわけです。

すごく皮肉だなと思うのが、マララさんが受賞した理由というのが「銃撃を受けながらも女性差別を訴えた」からなんですよね。こう言ってはなんだけど、もし彼女が銃撃されてなかったら、誰も彼女の話に耳を傾けていなかったかもしれない。世界中の人が耳を傾けることもないし、存在を知ろうともしなかったかもしれない。俺は、そこにすごくゾッとしちゃうんです。

マララさんと同じようなことを、今までいろんな人が言ってきたわけじゃないですか。じゃあ、なんで世界は変わらないのかと。

まず、そういう主張をしてきた人たちはみんな殺されてきている。ガンジーやキング牧師しかり、ジョン・レノン、JFKしかり。要は、彼らの主張通りに、平和になると、困る人たちがいたわけです。武器を作れば雇用が生まれて、それでごはんを食べられる人がいる。日本の原発も同じで、それで食べている人たちがたくさんいたからこそ、今まで反対派の声がかき消されてきたわけでしょう。

マララさんは素晴らしいし、ノーベル平和賞をとったのもおめでたいことなんですけど、一方で「平和じゃない原因は自分たちの中にあるんだな」ということを改めて感じたニュースでした。賞を与えている人、賞賛している人たちを含めて。

だから、マララさんに感動して「おめでとう」と言って終わりじゃなくて、彼女が言っていることを、どうやって具体的に実現していくかということをもっと考えてもいいんじゃないか、と。女性蔑視の問題なんて、日本でもまだいくらでも起きているわけですから。

以前もどこかで言いましたが、俺は「会社でお茶を出すのは女性」という暗黙のルールにも、すごく違和感を覚えます。「おかしいでしょう」って。

そうやって、ニュースをきっかけに実際にそういう身近な問題に目を向けたり、風潮を変えようとしたりすることが、本当は一番大事なんじゃないかと思うんです。

■人間は循環を信じられない

「ほかの人のために」「人類のために」という言葉がある。一見、正しい言葉のように思えますけど、人間以外の生物の存在に視線が向いてないということを考えると、ものすごく傲慢ですよね。

人間って、「ほかの人間が自分のことをどう思っているのか」「人間だけに貢献しよう」「人間だけがよければいい」っていうのが非常に強い生き物だと思うんですよ。権力者でありたい、富を得たい、優位に立ちたいというのも、対人間の欲望。よく考えると、滑稽きわまりないなって。

木の葉っぱが「俺は隣の葉っぱよりも長く生きている」「俺のほうが隣の葉っぱよりも偉い」なんて、考えないじゃないですか。街にあるいちょうの木の葉は、黄色くなってハラハラ落ちるのは自然なことなんですけど、人間って落ちるのを嫌がっている葉っぱみたいなものですよね。葉っぱが落ちても、そのあと次の葉っぱが出てくるということが見えない。「いや、テープでつけましょう」みたいなことをしている。

人間は基本的に循環というものを信じていないから、死ぬことをすごく怖がる。だから、いろいろなものを作って、動物を含めて自然を自分たちのほうに合わせようとする。

そう考えていくと、人間の存在って地球からすると、もう、体に巣食った腫瘍でしかないと思うんですよ。それまでは普通に機能して、自然と調和しているひとつの細胞でしかなかったのが、文明を持った瞬間に突然変異が起きて、死ぬことを拒否しはじめて、どんどんふくれあがっていくという。

自然、宇宙が奏でているメロディがあるとすると、人間が奏でるメロディというのはそれとはまったく違っていて、不協和音になってしまっているように思えます。それは人間が「自分たちだけで生きてる」と思い込んでしまっているからこそ、調和できないんじゃないかなと。

何だかヒッピーみたいなこと言ってるな、なんて思われるかもしれないですね。「じゃあ、自然の中でひとりで生きればいいのか」というとそうじゃなくて。

シンプルに「人間のことばかりを気にする必要ないんじゃないか?」ということです。もともとあるものがなんなのかっていうことをベースに考えて行動していかないと、人間自身も不幸せになっていく気がする。

自分の存在に変な自尊心を持ってしまうと、ろくなことがない。「自分たちが特別だ」と思ってるナショナリズムって、かっこわるいじゃないですか。「人間はすぐれた生き物なんだから、動物に何してもいいだろう」っていうのは同じ論調ですよ。人間という既得権益にあぐらをかいてる。

みんな右翼の人たちをバカにしたり批判したりしますけど、ナショナリズムの傲慢さって、生物全体から見たら、人間の行動原理そのものにも当てはまってしまう。ほかの生物からしたら、人間なんてめちゃくちゃ横暴な奴らです。その横暴さって、結局は、人間が苦しむ原因になっている気がするんです。じつは人間なんて、たいしたことないんだってことを、わかったほうがいい。

結論めいたことを言うと「人間は腫瘍であることには間違いない。じゃあ、せめてマシな腫瘍になりたい」と、この間、思いました。

【今週のキリヤ語録】

・マララさんに感動して「おめでとう」と言って終わりじゃなくて、彼女が言っていることを、どうやって具体的に実現していくかということをもっと考えてもいいんじゃないか、と。

・人間は基本的に循環というものを信じていないから、死ぬことをすごく怖がる。だから、いろいろなものを作って、動物を含めて自然を自分たちのほうに合わせようとする。