BACKNUMBER
コラム November 2014
November.01 2014
Sat Nov 01 2014 00:00:51
November.01  2014  

BACKNUMBER
コラム November 2014


『Last Knights』Vol.003 November 7 2014


■第3回「ロケ地、プラハにたどりつくまで」

当初、撮影地はインドのジャイプールに決まっていました。
最初にその場所選んだのは、とにかく風景が雄大で、すばらしかったから。
インドは以前プライベートでも訪れていて、ずっと以前から、そういう場所で映画を作りたいと思っていた。「やっと撮れる」という気持ちもありました。

ところが、です。クランクインする直前に「ここではちょっと撮れない」という事情が発生したんです。スケジュール的にはギリギリだったんですが、どうしても無理だということで、断腸の思いで「やめる」という決断を下しました。しかし、ほかにあてはありません。

そのとき、美術部のスタッフが「プラハはどうか」という案を出してきました。
以前、チェコのプラハで別の作品を撮影したことがあったそうで、「プラハにしよう。プラハだったらこの作品が、今の予算で撮れるだろう」と。

結局、俺は数日後にプラハへと向かいました。それまでのプランをすべて捨てて、もう一回ゼロから組み立てなおすことにしたんです。

実際、着いてみて。正直、風景のスケール感はインドのほうがよかった。プラハに着いてからも、すごく悩みました。でも、もう引き返すわけにいかない。「ここでやるしかない」と思って、必死になって準備を進めていきました。

今、振り返ってみると、「プラハで撮ってよかった」と心の底から思います。インドでやったらきっと制作が破綻していたでしょうね。「そのときもわからないことも、振り返るとわかるものだな」と。

そして、怒涛のプリプロ(舞台や衣装を決めていく映画制作の準備段階)が始まりました。

(つづく)


ネットと映画 November 7 2014


■映画は最後の砦だった

――映画業界のアメリカでは劇場公開と同時にネット配信するなどの新しい動きが出てきていますが、こういう動きは日本ではまだ一般的じゃないんでしょうか。

日本ではまだ一般的じゃないですね。劇場側がすごく拒んでいるところもあって。

まず、みなさんごぞんじの通り、つねにテクノロジーがアートやエンターテインメントのマーケット(市場)を変えてきたという流れがありますよね。

最初に変化したのは、制作現場です。音楽がデジタル化され始めたのが一番最初で、ドラムシーンやシークエンサーなどがコンピューターで制御できるようになって音楽製作の現場が一気に変わっていった。その次に、グラフィックデザイン。DTPが導入されて。それまでカッターとセロテープでやっていたものを、コンピューター上でやることが可能になった。その次に、写真。いわゆるフォトショップなどのソフトで自由自在に加工できるようになりました。そして最後に、動画にデジタル化の波が訪れた。そこにないものがあるかのように、CGで表現できるようになっていきました。そうやって、制作現場が変わっていく様子をずっと見てきた。音楽から動画にいくまで10年くらいはかかったと思いますね。

その次に、何が起きたか。同じことがマーケットに対して行われるようになりました。音楽をダウンロードするという概念が生まれて、CDというモノを通して音楽を買うという旧来のしくみが崩壊していく。

やはりAppleのiTunesの登場によるところが大きいけど、その前に、Napster(1999年1月発表。インターネットを通じて個人間で音楽データの交換を行うアプリケーションソフト)の台頭がありました。そのあとはPandora(2005年に登場したインターネットラジオ。自分好みの曲を自動で選んでくれる)とかが出てきて、音楽が聴き放題になっていった。音楽業界は最初はそうした流れに抵抗していたものの、結局は一気に崩壊に向かっていった。

で、それと同じことがグラフィックデザインにも起こったんです。それまで一部の人間しかできなかったようなことが、誰でもロゴデザインが作れるようになって、グラフィックデザイナーが山のように出てきた。俺もそのひとりだったんですけどね。当然、仕事の単価は下がっていってみんなごはんが食べられなくなっていきました。

写真も「フィルムを使って撮る非常に難しいもの」だったのが、デジタルカメラが導入されたことで、誰でもそれなりの作品が撮れるようになってしまった。シャッターを押してすぐに見れるから、暗くしたり明るくしたりも自由だし、「ダメだったらあとでフォトショップで加工すればいい」だろうって。こちらも、中途半端なカメラマンが山のように発生した。

最後の砦が、動画であり、映画だったんです。そこも、いまや仕事の単価が落ちていっている。映画はまだいいほうだと思いますけど、CM監督のギャラは結構落ちているのが現実でしょうね。

■スマホで映画を観る時代

じゃあ、映画では何が起きているか。iTunesみたいにダウンロードが始まって、NetflixやHuluみたいなのが出てきている。Netflixは、Huluより先に登場したサービスで、今、日本でツタヤがやっているようなことを先にやっていたんです。ネットがない時代に「DVDを家に送ってくれて、観たら送り返せばOK」というビジネスモデルを一番始めにやったところ。今は映画配信では最大手で、デヴィド・フィンチャーの『ハウス・オブ・カード』とか独自のコンテンツを作り始めている。それらの会員になると要は「月額見放題」なわけです。そうすると「わざわざ映画館に行きたくない」という人たちが増えるのは、目に見えていますよね。

実際、俺自身もよほどのことじゃないと映画館まで見に行かなくなっていたりするわけです。そうなってしまったときに、制作する側としてどうするのかということ。

でも、みんな、映画を観ていないわけではないんですよ。Appple TVやNetflixとかで観ている。そこに照準を合わせていかないといけないだろう、と思います。自分自身、劇場に行かなくなっているわけだから。あるいは、どうすれば行くような映画が作れるのか、という……。

――出版業界も、デジタル化しているとはいえ「本はやっぱり紙でないと」みたいな風潮があるんですが、映画業界にも「映画館」信仰みたいなものがやっぱりあるということなんでしょうか。

根強くあると思いますね。そのあたりは、アメリカ人はすごく合理的なんです。アメリカではもうCDショップはほとんどなくなってるし、本屋も消えかけています。日本は「いまだにCDショップがつぶれていない国」ということで、珍しがられているんですよ。日本人は、そこはこだわる傾向があるなと思っていて。「映画は映画館じゃなきゃダメだ」「写真はフィルムじゃなきゃダメだ」とか。

こだわる人たちは、こだわってくれていい。ただ、俺たちは制作する側がこだわっていたところでいつまでたっても先にはいけないんだから、フレキシブルに考えて先に行こうよ、というスタンスです。

映画館に観に行った人が、その帰りにDVDを買うかもしれない。同軸でネット配信してもじつは「食い合わない」んじゃないか。スマホで映画を見たあとに、大きなスクリーンでもう一度観たい、と思う人もいるだろうし。でも、そういう試みに対して、やっぱり業界の人たちは不安を抱いて、躊躇しているんですよね。

――みんな「利益が、今よりさらに減るんじゃないか」と考えているということでしょうか。

そうです。でも、ネット配信も劇場を同時解禁したほうが、映画館に来る人間も増えるんじゃないでしょうか。音楽業界がライブビジネスとマーチャンダイジングで収益を上げる姿勢になってきているから、映画も、ゆくゆくはそうなっていくと思います。

作り手としては、そりゃあ大きなスクリーンで見てもらったほうが嬉しいけど、別にスマホで観てもらったっていい。みんながスマホで観るなら、「じゃあ、スマホでとことん面白く見せてやろう」と思えばいいじゃないですか。

■「守ってもらう」のではなく、新しい工夫を取り入れること

日本だと、いまだにその道に通じた人が、カルチャーの楽しみ方をオーディエンスに強要するような傾向がある気がします。「蕎麦はこうやって食べるものだ」「寿司はこうやって食べるものだ」というように「映画は劇場で見るものだ」と。楽しみ方がお作法みたいになっていて、売り手が買い手に文句をつけるようなカルチャーがある。でも、「映画は劇場で見るべき」というのは、「ネットでショッピングなんてダメ。やっぱりデパートに足を運んで買わないと!」という話なわけで、その主張はやっぱりおかしいというか、滑稽だと思うんですよ。

そもそも、映画って音楽と違って上映できる本数が年間で決まっているから、その中で枠を取り合ってるわけです。Vシネ(劇場公開を前提としないレンタルビデオ専用の映画の総称)が出てきたときも「あれはよくない、映画館でかかる映画のほうがえらい」みたいな風潮がありました。今は「いきなりネット配信するのはよくない」とかも言われますけど、そんなこと言っててもしょうがない。そういう時代が来ていると思います。

――紀里谷さんは、業界のしくみがくずれていくことによって「クリエイターが食べられなくなっていく」状況に対して、抵抗する立場には立たなかったんですか。

映画監督が既得権益を主張し出したら終わりでしょう。そういうものが嫌でそういうものと戦うためにアートに関わる仕事をやっているのに、自分自身が言い始めたら、もう終わりじゃないかと。必要ないダムや原発を作ってる人たちと同じマインドになってしまう。テクノロジーに合わせて変化しながら、その中で一番面白いコンテンツを作ろう、というのが芸術家のあるべき姿なんじゃないでしょうか。もしアートで食えなくなったら、違うことをやればいい。少なくとも俺はそうありたいです。

一時期、歌舞伎や文楽、能も、伝統芸術として国が保護するべきという動きがありました。たぶん、映画も同じ道をたどるでしょう。誰かが「日本映画は国に保護しないとダメだ」って言い始める。でも、そうじゃないんじゃないか? と。お客さんがエンターテインメントを求めているわけだから、作り手がどうやって与えるのかということなのかなと思います。歌舞伎は唯一、自ら変化して、新しいことを取り入れて、今すごいファン層が厚くなっていますよね。映画も歌で観客も参加する『アナ雪』みたいな楽しみ方もあるんだから、「劇場に来てくれるような映画を作る」のでもいい。スマホもテレビもどんどん利用して、新しい工夫をしていったほうがいいんじゃないかと思います。

Hulu
http://www.hulu.jp/

Netflix
https://www.netflix.com/global

『ハウス・オブ・カード』
http://house-of-cards.jp/


『シン・レッド・ライン』 November 14 2014


『シン・レッド・ライン』
http://urx.nu/e6sf

1998年(アメリカ)、171分。
監督:テレンス・マーリック
出演:ショーン・ペン、ジム・カヴィーゼル、エイドリアン・ブロディ、ベン・チャップリン、ジョン・キューザックほか

この映画を最初に観たときは、衝撃が走りました。
これは映画であると同時に「詩」であり「物語」であり「小説」であると。
散文詩みたいな映画だなと思いました。
第二次世界大戦のときの話なんですけど、時代背景を超えて、普遍的なテーマを含んでいる。自然の中での人間そのものを描いている。知識がどうの、という次元を凌駕しているなと思いました。
この連載を始めて思うんですが、俺が挙げている映画って、理屈を通り越したすごさを持っている作品ばかりなんですよね。もう「神が宿っている」というか……なぜすごいのかを説明できない。

むしろ、すっきりと説明がつくような作品って、結局たいした作品じゃないような気がするんです。
たとえば批評家の人たちが、映画についていろいろと語ってくれています。
それは、確かにその通りだとも思うんですけど、批評で語られていることがすべてであれば、作品にする必要はないわけで。
やっぱり言葉では語れない領域があるからこそ、すごいんじゃないかと。

たとえば、夕日を見て「夕日の美しさを言葉で説明しろ」なんて言っても非常に難しいですよね。
美しい花があって「なぜこの花を美しいと思うのか」説明しなさいって言われても、説明したところで、どうなんだろうという。
「色がきれいで」なんて言ったとしても、それだけじゃない。
けれど、今の社会は「夕日の美しさ」をきちんと説明しないと、みんな「夕日」を見に行ってくれないようなところがある。
映画にしろ、何にしろそういう状況ですよね。どんなものにも、批評やプロモーションが始まってしまう。
本当は「夕日がきれいだった。だから、夕日を一緒に見に行こうよ」で済む話かもしれないのに。

このコーナーでも言いたいのは「いい映画です。まずは観てください。あなたは何を感じますか?」ということ。

どうも好きな映画のことを話し始めると、いつも言葉にできなくなっちゃうんです。

俺は、おそらく「説明できない」ものが好きなんでしょうね。
『シン・レッド・ライン』は、そういう映画のひとつです。


『Last Knights』Vol.004 November 14 2014


■第4回「ワンシーンのために東奔西走は当たり前」

ロケ地をインドのジャイプールからチェコのプラハに変えて間もなく、怒濤のプリプロが始まりました。
そもそも映画制作は大きく分けると「プリプロ」「撮影」「ポスプロ」の3つに分かれます。
「プリプロ」は撮影前のあらゆる準備過程のこと。撮影場所、舞台、衣装、大道具、小道具。すべてをクランクインまでに揃えなければいけない。
ちなみに「ポスプロ」というのはいわゆる映像の編集、CG制作、音楽などを合わせていく過程のことです。
プリプロでは、たとえば絵コンテを書いて、どういうふうに撮るのかを検証したり、ずっとプラハに滞在しながら舞台を作ったり、衣装を一緒にデザインしたり。
あとはアクションチームとの打ち合わせをしたり。
そういうことを2、3か月かけてやっていきます。
その頃、俺は毎日、宿泊地から撮影場所まで車で5時間かけて通っていました。
舞台には城を使いましたが、当然、ひとつの城だけでは撮れないシーンが出てくる。オリジナルのセットを作れるほどの予算はないので、いろんな城を組み合わせて撮っていました。
たとえば「人物が廊下を走っていってある部屋に入っていく」シーンがあるとすると、部屋はあるお城で、廊下は車で5時間くらい離れたところにある別の城で撮影する。
最終的に、5カ所くらいの城で撮った映像を組み合わせて、ひとつのシーンを撮ったりしていました。
そうやって組み合わせていかないと作品世界が成立しない。だから、どこで何を撮るかをかなり緻密に考えていかないといけないんです。
加えて、当然現場を見てセットを組むのか、CGで作ったほうがいいのかという判断も事前にしていかないといけない。大まかに言えば「なるべくきれいなロケーションを見つけて、足りないところはCGを使って加工していく」というプランを積み重ねていきます。
今回、CGはそれほど使っていません。
前提として「リアルで撮れるものはできるだけリアルで撮りたい」という気持ちがありました。
予算に余裕があったことも大きいですね。
正直、以前はCGを選択せざるをえなかった部分もありましたから。
そういう意味でも『ラスト・ナイツ』は「撮りたいように撮れた」という手応えがありました。

(つづく)


日本の未来 November 14 2014


■地元を見て「これが日本の未来なんだ」と思った

じつはこの間、熊本に帰郷したんです。自分の生まれたところ(球磨郡あさぎり町)にも行ったんですが、やっぱりさびれていましたね。街は活気がない。若者もいなくて、おじいちゃんおばあちゃんばかりというのもそうだけど、そもそも人があまり歩いていない。それを目の当たりにしたときに「ああ、日本の未来を知るには地方に行けばいいんだ」という実感がありました。都市部で暮らしていると肌で感じられないことも、地方に行くとわかる。「なるほど、これは大変な状況だな」と感覚的に理解できるわけです。

地方の現在が、やがて日本の未来になる。今、日本で社会問題になっているすべての問題——つまり、雇用問題や少子高齢化社会、過疎などの問題って最初の前兆はまず地方で起きるわけです。まったく同じことがやがて東京で、日本全体で起こっていく。

20年後、仕事は今よりも、もっともっと少なくなるでしょう。よほど国がそこに介入して、法律で雇用を守るようなことをしない限りは。おそらくコンピューターやロボットで代替することが難しい、クリエイティブな仕事だけが残っていきますよね。すでにリニアモーターカーは自動運転になっていますけど、さらに一般の車や電車が自動運転になれば、運送業や運転業がなくなる。ネットショッピングはすでに一般ですが、流通の変化が進めば、いずれ小売店であるスーパーマーケットや書店はなくなっていくかもしれない。失業率50%、なんていうとんでもない世界もありえるんじゃないでしょうか。

■テクノロジーの進化によって立たされる岐路

――ひと昔前までは、そうやってコンピューターですべて自動化されて、あくせく働かなくていい世界というのは、素晴らしい「ユートピア」だろうというイメージがありました。「ドラえもん」に出てくる22世紀のイメージのような。けれど、まったく働き口がなくなったとき、それは明らかに「ディストピア」ですよね。 そうなったときの選択肢って、結局、失業した人たちを「切り捨てる」か「社会保障の名のもとに養っていくか」のどちらかですよね。支配する側がどちらを選ぶのかという話です。もし「切り捨てる」ことになった場合、ものすごい淘汰が始まるんじゃないかな。

未来をディストピアとして描いた映画は結構あります。たとえば、『エリジウム』(2054年の未来を描いたSF映画)という作品。社会の格差が進み、限られた富裕層は荒廃した地球を捨てて、スペースコロニーの「エリジウム」に移住していって、そこで優雅な暮らしを送っているというもの。

『WALL・E/ウォーリー』(29世紀を舞台にした映画。主人公はゴミ処理ロボット)という作品もありましたね。アメリカの大量消費社会への風刺が込められた映画。生活に必要なことはロボットがすべてやってくれるので「みんなが働かなくていい」世界なんだけど、そうすると、みんな安楽椅子に座ってテレビみてるだけだから、ぶくぶくと太ってしまう。

たとえば、『WALL・E/ウォーリー』のように本当にすべての労働がロボット化された場合、どうなるか。農作物の生産、家畜の屠殺、衣服の製造から、レストランのウェイターまですべてロボットがやってくれる世界。そこまでは、確かにユートピアなんですよ。

でも、そこで問題になるのは、養える人口には限りがあるということ。それが60億人なのか、1万人なのか、1000人なのかはわからないけど、おそらくすべての人間は養えない。じゃあ、残りの人はどうするんだという話になりますよね。「世界の人口は70億人も必要ない」という結論になる。つまり「人口そのものを減らそう」ということ。極端なことを言えば「ウイルスを作ってばらまく一方で、限られた人にワクチンを配る」とか、人口を減らす方法はいくらでもあるわけですから。 そのとき、被支配層に選択権はない。言ってしまえば俺たちだって被支配層です。でも、かなりめぐまれているほうでしょう。もっと声を上げられない人だっている。社会がまだそれほどロボット化されていなくて「まだ利用価値がある」から、こうして生きていられるということだと思います。

■ロボット化の恩恵は再配分されるのか

ジャック・フレスコとロクサン・メドウズという人が創始した「ヴィーナス・プロジェクト」(科学的方法と技術を用いて貨幣ベース経済に替わる資源ベース経済の構築を目指している非営利の団体)という団体・活動があります。これはまさに「テクノロジーを駆使して、みんなが生きていけるような世界をつくる」ことを志向したものです。これから起こることを、ディストピアではなくユートピア的に捉えている。

俺は、そういう世界(ユートピア的な社会)が来ればいいなと思っているんです。でも、本当にそうなるのか? 世界中の支配層がそうした道を選ぶのか? というところですよね。テクノロジーはどんどん進んでいるけど、本当にそれをやるのか、やれるのか、という岐路に立たされている。「弱者を切り捨てる」道を選ぶのか「みんなで幸せになる」道を選ぶのか、最終的には支配層である人たちの情緒的判断にかかっている。

――資本主義社会では「弱者を切り捨てる」ことが「合理的」な判断とされてきた部分がありますよね? 俺に言わせれば、それも「情緒的」判断のひとつだと思います。弱者を動物にたとえるとわかりやすい。「人間のほうが強いんだから、食料にして食べてしまえばいい」という意見と「いや、同じ生き物なんだから保護しましょう」という意見は、どちらかが合理的ということはないでしょう。どちらもきわめて「情緒的」な判断ですよ。情緒的、というのに違和感があれば「感情的」と言い換えてもいい。

世界中で格差社会化が進めば、大多数の人間が今よりももっと動物みたいな扱いを受けるようになるでしょう。動物と人間の境目がなくなっていく。さかのぼれば、奴隷制度の歴史はまさに「人を動物として扱った」事例ですよね。もし、あの時代に労働力となるようなロボットがあったら、アメリカの白人たちは奴隷たちをアフリカに返したかもしれない。あるいは「もう必要ない」と殺してしまったかもしれない。それはやはり、情緒的判断だと思うんです。「かわいそうだな」と思うか思わないかという。

俺が知りたいのは、さまざまな労働がロボットでまかなえるようになったときに、今、チョコレートとかコーヒーとか東南アジアで製造業に従事しているような人たちが、ただ切り捨てられるんじゃなくて、きちんとその恩恵を受けられるのかということ。テクノロジーの恩恵は、全世界の人間が受けられるようにしてほしい。俺はシンプルにそう願っていますが、最終的にいわゆる支配層の人たちがそういう判断をするかどうかは疑わしい——そこは本当に「きわめて疑わしい」ですよね。それが、今の世界の現実なのかなと思います。


『ファイト・クラブ』 November 21 2014


『ファイト・クラブ』
http://urx.nu/ekrS

1999年(アメリカ)、139分。
監督:デヴィッド・フィンチャー
出演:エドワード・ノートン、ブラッド・ピット、ヘレン=ボナム・カーター、ミート・ローフ・アディほか

繰り返し観た回数では一番多いかもしれません。ブラッド・ピットも、この作品が頂点だったように思います。

監督は、ごぞんじデヴィッド・フィンチャー。あらすじは、エドワード・ノートンが演じる主人公が、「自分はこうでなければいけない」「生きていくにはこういうものが必要だ」というふうに、非常に物質的な価値観に縛られている人間なわけです。そこに、ブラッド・ピット演じるタイラーという謎の男が「そんなのやめちまえよ!」と言いながらやって来る。作品としても素晴らしいけど、テーマも素晴らしい。社会に「本当に必要なものはなんなのか」と問いかけるような映画。俺がいつも言っているようなことが、よく考えるとこの作品に凝縮されているような気がします。

「よくぞこのテーマを、このスケールでやったよな」と思います。当時、かなり話題というか、問題になりましたよね。「こんな映画にこんなにお金を使っていいのか」と(笑)。80億円くらい使ったんじゃないかな。

ここで描かれている“格差社会”みたいなものは、今は非常にリアリティが増していると思います。当時は「これってなんなの?」って感じだったんですよ。だから、先取りしていますよね。「革命を起こしちゃえ」という、オキュパイ・ムーブメント(ニューヨークが発火点となった占有デモ)の走りみたいな概念だし。

最後のほうのシーンで、9.11のように高層ビルがテロによって崩壊するシーンがあるんだけど、9.11より2年も前なんですよ。まだアメリカに対するテロリズムも、まだ世界レベルでは起こっていなかった。今見ると非常に予言的です。10年後には、さらにこの映画がリアルに思えるんじゃないかな。そう考えてみると、「当時は理解できなくても、今観るとわかる」作品や、「よりわかる」作品は、結構ありますね。

『ファイト・クラブ』は、今こそ見てほしい歴史に残る名作。俺の大好きな映画です。


『Last Knights』Vol.005 November 21 2014


■第5回「“ある世界”を一から作るということ」

プリプロ(舞台や衣装を決めていく映画制作の準備段階)の前提となるのが、スクリーンの中にどういう世界を作り上げるか、というイメージ。そのイメージを衣装、大道具、すべてのスタッフと共有しないと映画の土台が作れない。ですから、スタッフをテーブルに集めて「この映画で表現したいのはこういう世界です」と俺がまず伝えるわけです。

『ラスト・ナイツ』の舞台は、15世紀くらいの、いわゆる中世の時代をイメージしていました。だからスタッフにもまず、そのことを伝えました。
「中世だけれども、そこはアジア、黒人、白人、ありとあらゆる人種が混じり合って住んでいるという架空の世界。ただしファンタジーやSFではない。『ロード・オブ・ザ・リング』みたいな感じではなくて、あくまで現実にもとづいた世界として作り上げたい」と。

言葉で説明すると同時に、ビジュアルがないと話になりません。映画の世界のイメージがわかる風景などの設定画を作って、スタッフに見せる。その設定画を見ながら、各部のスタッフと、いろんなアイデアをすり合わせていくんです。

そうすると、たとえば衣装部スタッフが、衣装アイデアのスケッチを描いてきてくれる。
それを見て監督である俺が「ここはやりすぎ」とか「もう少しこういうふうにしてほしい」とか「もっと派手にできないか」なんて言いながら、どんどん詰めていくわけです。

もちろん、スタッフと意見が食い違うこともあります。そんなときは、お互いに遠慮なく言い合う。これは当たり前のプロセスです。向こうもプロなので、監督に何か言われたからといってそれで気分を悪くする人はいません(そういう人は最初からダメでしょうね)。どうしてもダメなときは、別れることもありますけど。

そこ(イメージ)をあいまいにしてしまうと、映画は作品として完成しない。
ですから、泣こうが、笑おうが、プリプロでは、かなり細かいところまで、イメージを詰めていかないといけないんです。

(つづく)


人生の“終わり” November 21 2014


■アメリカの女性が尊厳死をYou Tubeに予告

尊厳死予告の29歳女性が死亡 最期のメッセージは「さようなら、世界のみなさん」
http://urx.nu/ekMG

(編注・日本では回復見込みがない人の死期を医師が薬などを使って早めることを「安楽死」、延命治療をやめることを「尊厳死」と定義づけている。今回のアメリカでの尊厳死は日本では安楽死にあたる)

このニュースには純粋に驚きました。事故でも、病気でも、そこまで厳密にタイミングをはかることは難しいわけじゃないですか。こんなふうに、タイミングをはかって「さようなら」と人生にピリオドをつけるというのは、すごくフィナーレ感があるというか、劇場型ですよね。誤解を招く言い方かもしれませんが、画期的だなと思いました。ある意味美しいなと思った。

もともと、俺は安楽死については肯定派なんです。「長生きするのがいい」という風潮には懐疑的で。姥捨山みたいなことが必要だと思ってるわけじゃないし、自殺を肯定するわけじゃないんです。ただ「生きることだけが善で、死ぬことが悪」という思い込みは、人生そのものから美しさを奪ってしまっているように思える。

■できることなら拍手で送り、送られたい

人から聞いた話なんですけど、あるおばあさんが壮絶な人生を送って、ちょうど枕元に大勢の家族が集まっていたときに眠るように亡くなったらしいんです。そうしたら、誰からともなく拍手が湧いてきた。家族みんなの拍手で彼女を送り出したんだって。その話はすごいなと思うんですよ。悲しむんじゃなくて、うわーって祝福するわけでしょう。映画やお芝居が終わったあとのスタンディングオベーションみたいなもの。そういう人生の終わり方は、とてもかっこいいよね。そういう話を聞くと、死が必ずしも悲観的に捉えられなくなってくる。

そんなふうに誰かが亡くなったときに、悲しむだけじゃなくて「よくここまで生きたね」「よく頑張ったね」って言ってあげたいじゃないですか。それは、別に早死にだろうが、変わらないと思うんですよ。

もともと人間の細胞って自殺のプログラムがあってそれが正常に作動しないのがガン細胞なわけでしょう。地球の生き物の中で、人間だけが死を肯定せずに、どうにかして生きよう生きようとするから、地球全体がおかしなことになっている、とも言えるわけで。人間の命の価値って、長さじゃなくて、質であったり、深さであったりするんじゃないかと俺は思うわけです。

あとは、死ぬことを恐れて、生きない人が多いよね。「これをやったら死んじゃうかもしれない」「これをやったら食えないかもしれない」と思って、きちんと自分の人生を生きてない。死を必要以上に否定したり、恐れたりする必要はないと思う。

■葬式にはその人の真実がある

余談ですが、俺は結婚式よりも葬式のほうが好きなんです。葬式に行くと「人ってすごいな」と思う。そこに人間の圧倒的な真実があるような気がするんです。何て言えばいいんだろう、結婚式って楽しいけど、真実じゃない部分も混じってると思うんですよ。その点、葬式には真実しかない。

死んだ人の顔を見るのはさみしいんだけど、お棺の中にいる人を見ると、そこには有無を言わせない真実がある。そういう真実って、生きていてもなかなかふれる機会がない。

俺が死んだら、ぜひパーティ、どんちゃん騒ぎをしてほしいです。遺影もピースしてるようなものを使って、知り合いのバンドを集めて演奏してもらって。自分で言うのもなんだけど、俺の葬式には結構すごい面子が揃うと思いますよ!(笑)

今まで撮ってきたバンドとか集めるだけで相当なもの。いやあ、もうフェスができると思いますよ(笑)。クライブ・オーウェンやモーガン・フリーマンも来てくれるかもしれない。人生が終わるときには、みんなに祝福されて送り出されたいですね。

【今週のキリヤ語録】
俺は結婚式よりも葬式のほうが好きなんです。葬式に行くと「人ってすごいな」と思う。そこに人間の圧倒的な真実があるような気がするんです。


本質の議論 November 21 2014


沖縄知事選、衆議院の解散。政治では大きなニュースが飛び交っているけど、正直なところ、俺には何が起こってるのか、まったくわかりません。

熱心に語ってるマスコミの人たちも、「小難しいことを言っているけど、何が起こってるのか本当にわかってるのかな」と思ってしまうんですよ。「わかっているふりをしているけど、本当は誰ひとりわかってないんじゃないか」と。

消費税を上げたらこうなる、下げたらこうなる、延期したらこうなるとか、そういう解説はたくさんあるんだけど、俺からすると、それは枝葉の話で。「そもそも、なんで上げなければいけないのか、その前に無駄使いはしていないのか」という話にさかのぼらないといけないと思うんだけど、そこの議論はすっとばされる。何が本質の議論なのかわからないまま、枝葉の議論がずっと続いているように見えてしまうんです。

皮肉なことに、俺が重要だと思うことは社会では重要とされていなくて、社会が重要だと思うものが俺には重要だと思えない。

日々の給料のため、ご飯を食べるために船を漕いでいる人がいっぱいいる。
でも、何を追いかけているのか、何を目指してるのかわからない。それが氷山に衝突しようが、滝に落っこちようが、わからないけど、とりあえず漕ぐ。でも、「一体その先に何があるんだろう」と、やっぱり思ってしまいます。

テレビでニュースが流れていても「一体、何やってんだろうな」という感じ。関係性が持てないというか。もう、引きこもりの気持ちに近い。彼らの気持ちも、わかるんですよ。要は「やってらんねーよ」ということですよね。そういう人たちって、いつの時代も、どこの国にも結構いたんじゃないでしょうか。たとえば、中世ヨーロッパではキリスト教を守るという名のもとに、魔女狩りや天動説の弾圧をやったわけでしょう。そういうのを見て「こんなバカな世界、やってらんねーよ」と思っていた人たちは、じつはたくさんいたと思う。でも、全体からすると少数派なんでしょうね。

マスコミを見ていて思うのは、重大な政治ニュースがあっても、そこに台風が来たりすると、あっというまになかったことになる。原発問題も、選挙も政治も、結局「AKBのセンターの子が変わった」みたいなニュースとなんら変わりはなくて、しばらくすれば「ああ、そんなこともあったよね」で終わってしまう。重要なことなんて、じつは何ひとつないんじゃないかと思ってしまう。

俺たちにとって重要なニュースって、なんなんでしょうね。
少なくとも、テレビやネットにたくさん流れている中には、ほとんどないんじゃないかと思います。

(参考)
安倍首相、21日の衆院解散表明 消費増税は先送り
http://www.asahi.com/articles/ASGCL5TPMGCLUTFK00W.html

解散総選挙、「過半維持なら続投」の落とし穴
http://toyokeizai.net/articles/-/53799


『エンゼル・ハート』 November 28 2014


『エンゼル・ハート』
http://urx.nu/eBOZ

1987年(アメリカ)、113分。
監督:アラン・パーカー
出演:ミッキー・ローク、ロバート・デニーロ、リサ・ボネットほか

先日、たまたま、見返していたら映像もすごく素敵で、すごく優雅。改めていいなと思った作品です。
あらすじは、ひとりの男が悪魔と取引をして、というような内容なんだけど、アラン・パーカーが監督で、ミッキー・ロークの出世作。ミッキー・ロークはその前にエイトハーフという出演作がヒットしたんですけど、この作品でロバート・デニーロと共演するんです。

ミッキー・ロークとロバート・デニーロというのは、わかりやすく言うと、(生きていたとして)松田優作と木村拓哉が共演する、みたいなものですかね。ベテラン大スターと若手の演技の新旧対決みたいな感じになっていて、非常にピリピリした緊張感を感じられます。

リサ・ボネットという女優さんもいい演技をしているんだけど、彼女はミュージシャンのレニー・クラヴィッツの(元)奥さんなんですよね。その当時レニー・クラヴィッツはまだまだ無名でしたけれども。

これは、いい映画ですよ。まだ観たことのない人は、ぜひ観てみてください!


『Last Knights』Vol.006 November 28 2014


■第6回「機材も凍る、極寒の中での撮影」

プリプロが終われば、あれよあれよという間に撮影がはじまります。

映画の撮影にリハーサルがあるものだと誤解している人もいますが、最近はスケジュールと予算の都合上、リハーサルは組み込まれていない。すべてぶっつけ本番です。
正直、こうした予算上の縛りに「やってられないな」と思うこともありますよ。
ただ、妥協する言い訳にはならない。俳優陣も、みんなプロですからきっちり演技してくれます。

撮影では、ありとあらゆることが大変でした。
ただ、おもな苦労を挙げるとしたら「時間」と「寒さ」。

1日に12時間撮影するんですが、本当に12時間ぶっ続けなんです。
15分以上押してしまうと「アウト」。
ぼやぼやしていると、次の日の撮影開始が1時間くらい遅くなってしまう。そうなると、ずるずる遅れていって、1日、2日と撮影期間が延びてしまうんです。
それは許されないので、リテイクをしながらも、いかに効率よく回していくかということに集中しないといけない。

そして、今回のプラハでのロケは、気候が過酷きわまりなかった。本当に寒かったんです。
寒いときは気温がマイナス20度にまで下がりました。
そうした中で、くる日もくる日も撮影をしないといけない。
当然、コンピューターが凍ってしまて充電できなくなったり。
あとはあまりにも寒いと、台詞を言うにも、俳優さんの口が回らなくなってしまったりするんですよ。

レンズチェンジもできなくなってしまうので、撮影部がレンズをドライヤーで暖めたりしていました。

そういう状況の中でも手は抜けないので、まさに毎日が戦いでした。

(つづく)


「スター」 November 28 2014


■「スター」という存在について

高倉健さん死去 83歳
「幸福の黄色いハンカチ」
http://www.asahi.com/articles/ASGCL3VGVGCLUCLV001.html

当たり前の話ではありますが、高倉さんは、憧れの俳優さんでしたし、僭越ですけど「いつの日か自分の作品に出ていただけるように頑張ろう」と思っていました。

——高倉さんはまぎれもなく「スター」だったという気がするのですが、あの存在感は誰もが持てるものではないですよね。「スター」ってなんなのか、思うところがありましたらお聞かせください。

やはり「星」という意味に象徴されるように、「手の届かない存在」という要素が大きいですよね。高倉健さんはプライベートがまったく明らかにされないことでも有名でした。俺も直接ご本人にお会いしたことはありませんが、お知り合いの方から伝え聞くエピソードだけでも、伝説みたいなものばかりで「やっぱりすごいな」と思っていました。自分の美学を徹底的に貫く姿勢が本当にすごいなと。

ーー紀里谷さんが、ほかに憧れていた俳優さんはいますか?

松田優作さんですね。はじめて観た作品は『蘇る金狼』で、まだ小学生だったと思いますが、「すごいかっこいい」と思いました。小学生の頃、ヒーローといえばブルース・リーにも憧れていたんですが、同じ系譜というか。彼は本当に漫画のキャラクターが飛び出てきたみたいな感じ。男の子が「こうありたい」と思う姿を体現化しているわけですよ。そこにみんな憧れてしまう。

振り返ってみると、最近は高倉さんのような「強烈な美学やキャラクターを持ったスター」というより、身近で親しみやすい、「手の届く存在」であることを求められている気がします。強い”感触”を持ったスターというものが成立しづらい。これから生み出そうと思っても、なかなか難しいだろうと思います。

■昔の俳優は、存在そのものがファンタジーだった

昔の映画俳優は、あくまでも手の届かない存在だった。アニメ上のキャラクターのような存在だったんですよね。でも、それで余計に妄想をかき立てられていた。

けれど、今はメディアと映像テクノロジーの進化によって、どうしても「スター」たちとの距離が近くなってしまった。昔は、そういう人たちがリアルの世界に現れるとみんな「本当にいたんだ!」ってびっくりしていたと思うんですよ。「宇宙人を見た」くらいの驚きがあったんじゃないでしょうか。映像も非常に画質が悪かったり白黒だったりしたわけで、そういう意味でもリアルに見たままというわけではなかった。今はテレビはハイビジョンで、実際に会ったとしても「ああ、テレビに出ている人だね」という感じなんじゃないかなと。

これは、科学の進歩がファンタジーを駆逐していくのと同じで、しかたない流れだと思うんですよ。昔は「月にうさぎが住んでいる」と思っていたけど、違うということが証明されてしまった途端に、人々はそうしたファンタジーを持つことができないわけでしょう。

パパラッチが使うカメラの精度を含めてプライバシーを暴く技術がどんどん発達していけば、スターはスターとして成り立たなくなる。「月にはうさぎがいなかった」と思うのと同じように「スターはいなかった」と誰もが思うことになる。

スターが成立しづらい、というのはもう止められない流れなんじゃないかな、と思います。

今、二次元のキャラクターに夢中になる人が多いのは、妄想をかき立てるような存在がリアルの世界に成立しづらいからなのかもしれないですね。

■憧れる対象の基準が変わってきた

今は、憧れの形も変わってきている。そもそもの興味が第三者よりも自分に集中している気がします。自画撮りが流行っていますけど、象徴的だなと。誰かに憧れる場合も、その理由が、純粋な憧れというよりは「自分が真似しやすいから」という要素が大きかったりするわけじゃないですか。

音楽やファッションも「自分がカラオケで歌いやすいから好き」「自分が着たらモテそうだから好き」であったり。今の若い人たちにとっては、スターはスターでも、手の届く存在であることが重要なんだなと思いますね。

■スター不在の映画界はどうなっていくか

昔の俳優さんって、プライベートは結構めちゃくちゃだったりするわけじゃないですか。「誰と喧嘩した」だの「酒を飲んで暴れた」とか、そういうものが伝説になって俳優としての評価とはわりと関係なかったと思うんですけど、今はそれがもう許されない風潮がありますよね。スキャンダルを起こしたら終わり、という空気があるから、強烈なヒーローが出づらいのかもしれない。

ーーすばらしい俳優さんも私生活や女性関係では結構浮き沈みがあったりしますよね。三國(連太郎)さんも三回結婚されていたり。

まあ、勝新太郎さんとかもそうですよね。相当めちゃくちゃ(笑)。でも、俳優としての評価とプライベートでの評価は、あまり関係がなかった。けれども今は、とくにテレビがそうですけど、コンプライアンスを重要視しすぎて、全然自由じゃなくなってしまった。そうした風潮は、映画の世界にもひびいている気がします。

ーースターの不在は映画を作る上では、やはりデメリットがあるんでしょうか。

企画が成立しづらい、という難点はあるでしょう。スター不在、という流れはアメリカの映画界にも言えることで、以前はスターがいてくれれば映画が成立したから、どのスターを使うかというのが最重要課題だったんです。けれど、今はそのしくみが成り立たない。ブラッド・ピットやレオナルド・ディカプリオといった面々くらいしか、映画館にお客さんが呼べなくなっている。

ただ、その結果、最近はどれだけ脚本が面白いか、どれだけCGがすごいか、どれだけアクションがすごいかというほうに重点がおかれるようになっていて、これはちょっと面白い現象ですよね。いわば、映画の原点回帰です。そう思えば、悪いことばかりじゃないのかもしれないですね。