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コラム September 2014
September.01 2014
Mon Sep 01 2014 00:00:47
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コラム September 2014


なんとなく感じる未来 September 5 2014


−−貧困についてのお話です。日本も相当に深刻なことなっていますね。

国の調査データでは、子どもの6人にひとりが貧困層だと言いますね。貧困層とは、平均所得の2分の1以下の家庭のこと。そこで育っている子どもは、鉛筆さえ満足に買ってもらえないらしい。学費が払えなくて、学校にも行けない児童が存在しているという明確な事実が、この日本にはあります。貧困層ではない普通の人たちからしたら、そんな子がどこにいるんだ?と思うでしょうけど、日本は隠す文化なので、巧妙に見えないところに追いやられています。
アメリカの貧困はもっと悲惨です。公的扶助のフードスタンプで、かろうじて生きながらえているような状態。貧困層は社会保障費が払えないから病気の治療ができない。例えば虫歯なんか何年も放ったらかしで、地区によっては東京ドームみたいな場所で年1回、貧困層向けに無料治療を行っているんですけど、ものすごい行列で、子どもが朝4時から並んでいたりします。やっていることは開発途上国と変わりません。政府に解決してもらうとか、何もかもアウトソースして効率化していけばいいという概念を、私たちはあらためていかないといけない思います。
一部のお金持ちと言われる人たちが富を独占して、つかいきれるはずもないお金をせしめて太っていく。その一方で、多くの貧しい人たちがさらに貧しくなっていく。その構図が限界にきている。そもそも富を独占している人たちが幸せかどうかも、わからないでしょう。

−−貧しさに苦しむ人たち、または富豪だけど満たされない人たちに、作品を届けたいと考えてらっしゃいますか。

そういうのはどうでもいい。具体的に、どう解決していくかっていうことにしか興味はないです。問題の本質が知られていないというのが、すごく大きな問題だと思います。知ってもらえるための行動は、これからもすすんでやっていく。貧しい人に作品を届けるとか、一時でも楽しんでもらえるものを提供するとか何の足しにもならない。否定はしないけど、本当に大切なのは「知ってもらう」ことに努めるべきじゃないかと。
知ってさえもらえすれば、行動してくれるはずなのに何も知らされていない、もっと言うと知らなくていいことばかり知らされている。社会のメカニズムがおかしい。そこを変えていかなくちゃいけないと思います。情報も富も、この世界では正しく分配されていない。それさえ多くの人が知らない。

−−一方で、日本は紛争もないし、ほとんど餓死者もいない。その意味では、優れている部分はあると思います。

でもどうでしょう。紛争は、違う意味で私たちの周りでも起こってるんじゃないでしょうか?

−−8月の中旬、豪雨による土砂崩れで、広島では50人以上が亡くなる大変な災害が起きました。

  ひどい災害ですね。でも急に起きた悲しい災害なのか、いつも起きていることなのか……俺にはわからない。いたましいことには違いありませんが。何か、人間の勝手で災害と言ってるだけのような気もします。そう言ってしまうとミもフタもないんですけど。こういうときだけ大自然の驚異だとか、ニュースになるのには違和感はあります。 最近、また真面目に、田舎に住もうという考えが頭をもたげています。心の奥底には、ずっとあったこと。そろそろ実行に移していこうかと思っています。
都会でやることが、もうなくなってきたからかもしれない。ここ数年いろんな人と話してきて、世界平和や、富の分散について、真剣に取り組まなくちゃいけない時代だというのを切実に感じる。同じように感じ取っている人が如実に増えているし、自分の周辺が急速に変化している。これまでにはなかった、違う動きが始まる過渡期なんだろうなと。
戦後だいぶ経ってから俺は日本人に生まれて、一度も戦争というものに関わることなく生きてこられたのはラッキーだったなと思います。一方で、すごい変革の時代に生きなくてはいけなくなった重みのようなものも受け止めています。まだ表面化はしていないけど、20年いや10年後には、想像もつかない変革が起きているはずです。そこで何をするのか、どうあるべきか、俺たちの一番の課題です。
「私は知らない」では、すまされないぐらい世界は小さくなってきています。福島の原発から出た放射能が、カリフォルニアに届いている。以前には、ありえなかったことです。アメリカが経済破綻したらどうなるか、中国のバブルがはじけたらどうなるか。一国家の問題がたちまち世界を駆け巡って、人類共通の取り組むべき問題になっていきます。アイスバケツチャレンジでわかったはず。何かの変化が世界中に伝わるのには、もう何ヶ月も何日もかかりません。
そういう時代において、自分がどうあるのか、何者であるかを真剣に問うて、生きていかざるをえない。映画、音楽、アート……何でもいいんですけど。クオリティがどうとかメッセージがどうかと、考えてつくっていくのも悪いことではないんですが、もっと人類的な視点で、物事を考えていく時代に到達したんだと思います。
これからはひとりひとりが自給自足を考え、エネルギー問題を自分たちで解決していくしかないでしょう。人類の最大の問題はエネルギーなんだと思います。無償のエネルギーがつくられない限り、世界平和は来ない。しかし、それが誕生したとき軍事産業は大幅な転換をするだろうし、まったく新しい産業革命が起きる。
例えば世界のどこかに100人ぐらいの村があったとします。そこで、石油とか電力とかエネルギーをまったく必要としない生活が成り立っていたら、世界の希望になるんじゃないでしょうか。
特別なことではない。かつて人はみんな、そういう生活をしていたんですから。
みんな、追いかける・追いかけられる社会に疲れています。疲れ果てている。エネルギーを奪い合うのではなく、自分たちでまかない、豊かさを分け合う社会づくりの模索が始まっています。やらなきゃいけないじゃなくて、もう始まっているんだと思う。

−−ノーベル賞くらいの科学者がこぞって研究していることですね。

近年までは、いいところまで研究されても既得権益のエネルギー産業が、すべて潰してしまっていた。けれどネットがここまで普及すると、状況は変わって行くのではないでしょうか? これからは既得権益側が富を独占しようという動きと、富を拡散していこうという動き、その二極の戦いの時代でもあるでしょう。みんなでシェアするのか、独り占めにするのか、私たちの価値観が問われているんだと思います。資本主義の論理は、特定の誰かが独占するということに立脚していますが、もう古くなってしまった。次の段階に入ってきたということです。
新しい価値観の芽は出てきていると感じます。誰かひとりの発明ではなく、世界同時多発的に様々な気づきやアイディアが生まれて、シェアされて拡散していくイメージが俺にはある。人間がひとつのものになろうとしている予兆を感じます。
こういった変化に対して、俺は本当に希望を見いだしています。争いも奪い合いもない、平和な世界が実際にやって来るんじゃないかと。まあ既得権益のシステム側は、そうなる前に戦争をやりたいんだろうけど……。

−−紀里谷さんはクリエイティブの一方で、これからは人類活動に身を投じようとされていますね。

遅かれ早かれ、子どもの頃から薄々と、いつかそういうことになるだろうなと思っていました。主な興味がそちらに移っています。
もちろん映画づくりは続けてやっていきたいことですが、職業としての映画制作と、人生としての映画づくりを分けていこうかなと。生業を成すための商業映画をつくる一方で、いままで述べたようなテーマを追っていくものを、きちんとつくっていくことになるでしょう。最近になって、自分個人と職業というものが分離されると同時に、ひとつにまとまっているという不思議な感覚を得るようになりました。以前は、こういう作品がつくれたらいいよね、つくりたいよねと考えていましたが、いまは「こういう世界を見たい」という自分がいます。
本当に何がしたかったのか、自分の中でやっと見えてきた気がします。フランス革命も民衆がギリギリまで追いこまれて、やっと起きた。現代もそれに近い状態です。誰もが加速度的に追いこまれている。まだ笑っている人はいるけど、10年経てばもう絶対に笑ってられない。行動を起こすタイミングは今なんだと、体感的に世界中の人が気づいていると思います。


自然に生きる September 12 2014


■テクノロジーが「自然な生き方」を可能にするという逆説

ニュージーランドと東京、2拠点で生活している四角大輔さんという人がいます。彼とは最近、友だちになりました。Makuakeなどのプロジェクトをやってる「部活」と呼んでる集まりがあるんだけど、そこに来てくれて、一緒に話をして意気投合した。「今度、ニュージーランドに行かせてよ」なんて話しています。

「紀里谷さんと考え方が近いところがあるのでは?」と言われましたが、確かに似ているかもしれないですね。四角さんのほうが、かなり実践的だと思います。俺は彼と比べると「まだまだしがらみを手放せていないな」と思う。

でも、これからは、いい意味で彼みたいな人がスペシャルじゃなくなっていくんじゃないかな。四角さんみたいな生き方が、どんどん当たり前になっていくと思うし、すでに当たり前になりつつある。

つまり、国や職業に縛られず、自分で場所を選んで自由に生きていくということ。高城剛さんなんかも、別に「ノマド」という言葉が流行る前からああいう生き方だったわけで。そうしたムーブメントは今、世界の先進国のあちこちで始まっている。それってじつは新しいことじゃなくて、人間が本来の生き方へと原点回帰しているだけのような気がするんですよ。

やっぱり、過剰に都市化された生活や文明というものが、そもそも人間にとって不自然であり、その不自然さに違和感を覚えた人たちが、何か違う生き方を模索しているということだと思う。

さかのぼれば、アメリカのヒッピームーブメントをはじめとして、脱国家、脱都市の流れはずっと前から始まっていた。そういう衝動はつねに人間の中にあるのものなんだと思います。

面白いのは、高度な技術革新がそうした「原点回帰」を可能にしているということ。

個人と個人が「マスコミなどのメディアを通さずに」直接やりとりする、というのは、とてもアナログで自然な行為だと思うんだけど、それはデジタルなテクノロジーによって、より高度なレベルで、可能になっている。遠く離れた場所にいながらにして、議論を交わし、文化を温め、共同見解みたいなものを生み出すことだってできる。

不自然な生活を強いるはずのテクノロジーが、高度に進化することによって、むしろどこにいても「自然に生きる」ことを可能にしている。

■今までテクノロジーはビジョンのない「効率化」に使われてきた

――テクノロジーと言えば、先日、紀里谷さんが「近年、うつになる人が多いのは、テクノロジーが人の脳のスピードを超えているからじゃないか」とおっしゃっていましたが、今の話ともつながるんでしょうか。

一見矛盾しているかもしれないけど、つながっていますね。

「テクノロジーに囲まれているとうつになる」という状況ももちろんあると思うんだけど、テクノロジーをさらに進化させることによって、そうした「負の状態」を超越するポイントが来るんじゃないかと思うんですよ。

今は、テクノロジーがおもに「効率化」に使われていますよね。でも、ときに、その「効率化」が、じつはほとんど目的のない行為なんじゃないかと思うんですよ。

もちろん、資本主義社会の原則として、非効率的なものを効率化すれば、利益が生まれるからお金がもうかる。それはそれでいいんだけれども、何もかもが効率化された世界では、最終的にはごく限られた人間しかやっていけなくなる。

極端な話、99パーセントの人間がついていけなくなったとき、その人たちを排除するのかという問題が起こる。

「排除しよう」という動きが、今までたくさんあったわけですけど、「いやいや、排除するんじゃなくて、みんなで暮らしていけるようにしよう」という動きもある。究極的には、その二択しかないと思うんです。

結局のところ、前近代的な資本主義者は法律を尊重するし、排他的なんです。一方で、お互いに調和しなければ未来はないと思っている人たちも、たくさん出てきている。

やっぱり、ビジョンがないままテクノロジーが進化しても、破壊や搾取に進むだけだと思うんですよ。「調和のためのテクノロジー」を考えていかないといけないんじゃないかということを、強く思いますね。

■未来の世界では「定住」の概念はなくなっている?

ちょっとSFチックなんだけど、俺にはときどき想像する「未来のイメージ」があります。

一緒に想像してみてください。

世界中に、サーフボードくらいの大きさのカプセルが浮いていて、その中に人が寝られるようになっているんです。

みんな、ひとり一台。カプセルに入ったまま、海の上だろうが、山の上だろうが、移動することができる。目的地に着いたらカプセルがパカッと開く、みたいなイメージ。

内部は、熱すぎず寒すぎないちょうどいい温度がキープされているので、その中に入って移動すればいい。「超高性能キャンピングカー」みたいなもの。

だから車もいらないし、家もいらない。
高速移動が可能だから、南極なんかにも数時間で行ける。
会いたい人がいれば、大西洋の真ん中で待ち合わせたりもできる。

――面白いですね。その世界を、まず映像で観てみたいです。

鳥や魚って、行きたいと思ったところに体ごとすっと行けますよね。
その生態に近づくようなイメージです。
いわば、人間の生活を、ものすごいテクノロジーを使って「自然のいとなみ」に近づけるということ。

自分の体ごと自由にどこにでも行けちゃう。だから「定住」の概念がない。
そして、みんな「自分とカプセルがあれば十分で、ほかには何もいらない」という……。
すべて俺の妄想だけど(笑)、そういう未来のイメージがあります。

ただ、未来はわからないですからね! 本当にこうなるかもしれない。

人間はテクノロジーを使って、どんどん自然に近づいていくような気がする。
その流れは、あながちはずれていないんじゃないかな。


東京で心ひかれる風景 September 19 2014


■好きな場所、心ひかれる風景

今回は、今暮らしている「東京」について。そして好きな場所、風景、街について。
みなさんは、「好きな風景」「好きな場所」はありますか?

俺は首都高をよくバイクに乗って走っているんですが、走っているときに見える道路風景がわりと好きです。東京の風景で好きなところというと、なかなか思いつかないんですが、吉原や川崎の堀の内などの風俗街なんかは、すごく独特な雰囲気があって心惹かれますね。

神楽坂や新宿歌舞伎町も「いいな」と思います。

吉原、歌舞伎町みたいな風俗街や歓楽街って、すごくリアルで「正直」だなと思うんです。
風景に「嘘」がない。

とくに歌舞伎町は混沌としていて、面白いですよね。長年シンボルになっていたコマ劇場が跡地になってずっと工事しているけど、あそこにビルが完成したらまた印象ががらっと変わってきてしまうんだろうなと思う。

■完璧にデザインされてしまうと、失われるものがある

逆に「正直じゃない」場所というのは、つまり、意図的に作られた匂いがあるということ。たとえば、六本木ヒルズ、虎ノ門ヒルズ、ミッドタウン。すみずみまでデザインされた場所にはどうも心惹かれない(こうして挙げてみると、森ビルの開発ばかりですが)。

六本木などの港区周辺は、以前は好きなエリアだったんですが、今はどちらかと言うと嫌いになってしまった。六本木ヒルズができてから、大分雰囲気が変わりましたからね。便利だろうと思って住んでいた時期もありましたが、でも、じきにそこにいること、暮らしていることが嫌になってしまった。

華やかで、都会的で、洗練された空間が、俺にはどうもコンプレックスの裏返しのように思えるんです。どんなに上質でセレブっぽい雰囲気に包まれてはいても、こう言ってはなんだけど、とても「貧乏くさく」感じてしまう。明治時代に一生懸命日本人が西欧・近代化していたようなことを、なんでいまだにやり続けているんだろうな?と。

この傾向は東京だけじゃなくて、残念ながら、地方都市も、今はその場所ならではの雰囲気がなくなってしまっているところが多いですね。

俺は親がパチンコビジネスをやっているので、フランチャイズのビジネスをどうこう言える立場じゃないんだけれど、地方都市の風景って、今、「どこも同じ」ですよね。ファミリーレストラン、コーヒーショップ、レンタルショップ、消費者金融。どの駅で降りても、同じようなビル、同じようなお店の看板が並んでいる。

そういう場所で商店街をもう一度復活させよう、というのは難しいのかもしれない。でも、効率化のもとに非効率的なものをどんどん排除していくと、やっぱり、何かが死んでいくなと思う。

■誰かが「ひと儲けしよう」とすると、その場所がつまらなくなる

あとはやっぱり、下町が好きです。

昔ながらの下町の匂いを残した場所は嘘が少ない。新橋とかも好きでよく行っていたんですが、ガード下の飲み屋街なんかはちょっと「嘘っぽく」なってきてしまってますね。秋葉原も以前は面白いと思っていたんだけど、「オタク」文化がどんどん打ち出されてビジネス化されるようになってからは、あんまり面白みを感じない。

本当はありのままで雰囲気があった場所のはずなのに、もともとあった雰囲気をコピーして、それを売りにしてしまっている。そういう意味では、新宿ゴールデン街も、今はそれらしく作られてしまっているので、吉原のほうが「正直さ」が残っているな、と思います。

おそらく、誰かがその場所で「ひと儲けしよう」とし始めた瞬間に、その場所がつまらなくなってしまうような気がする。もともと、場所としっかりと結びついていた文化が切り売りされてしまって、ただの消費対象になってしまうからだろうか。

コミケや東京ガールズコレクションなどのイベントも、最初の頃は、唯一無二の熱気やパワーがあったと思うんです。今はかなり企業が入り込んでしまって、商業色が強いものになっている。その分、均一化されて、面白みは失われてしまっているんじゃないか。頭がいい奴が入り込んできてビジネスが始まる。そうすると、場所がダメになっていく。いい、悪いじゃなくて決定的に「つまらなく」なってしまう気がするんです。だから、まだ侵食されていない風景が好きなのかもしれない。

吉原、歌舞伎町、大阪の飛田新地……。行ったことない場所もまだまだありますが、新しいビルやショッピングモールが立ち並ぶ華やかな場所よりも、昔からの猥雑な雰囲気を残した風俗街や歓楽街にこそ、「正直」で面白い風景が残っているような気がします。

【今週のキリヤ語録】
・誰かがその場所で「ひと儲けしよう」とし始めた瞬間に、その場所がつまらなくなってしまうような気がする。
・昔からの猥雑な雰囲気を残した風俗街や歓楽街にこそ、「正直」で面白い風景が残っているような気がします。


クールジャパン September 26 2014


「クールジャパン」について
ちょうどこの間、その関係のパーティがあって参加してきた。
クールジャパンファンドからウン億円もらったという人も何人か知っているけど、正直「何に使うんだろう」と思う。
あくまで素朴な疑問として(笑)。

試み自体は、非常にいいことだと思う。
しかし、お金の流れは東北の義援金と同じようなジレンマが生まれているような気がする。
お金が集まって復興工事も進んだけれども、最終的に潤うのは、その土地の人じゃなくて、建設会社だけ、みたいな。

全く違う試みで、映画製作の誘致に成功した、ルイジアナ州の例がある。
ルイジアナで映画を製作すると、かかった費用の30%が戻ってくる。
たとえば、CG製作で1億円かかっても、そのうち3千万は完成後に戻ってくる。
だから、今、ルイジアナに映画まわりの人がどんどん集まってきて、制作のメッカになっている。

日本も、そういうやり方をしてもいいんじゃないだろうか。
もちろん地方にはフィルムコミッションみたいなものがあって、それなりに活動はしているんだけど、もうちょっと先進的な考えが必要だと思う。

世界中の映画監督が東京で自由に映画を撮影できるようにすれば、みんな来ると思う。
そういう、今までに取りくめていなかったものにチャレンジしていくほうが、よっぽど「クールジャパン」なんじゃないか?

あとは、日本のアニメが素晴らしいのは賛同するところだけど、仕掛けるタイミングが10年、20年遅れた感じは否めない。
日本で素晴らしいアニメと言って挙がってくるのって、やっぱり、ガンダム、AKIRA、攻殻機動隊、ジブリなんかでしょう。
それって全て10年以上前のもの。
新しい作品も出ているけど、もっと前にやるべきことだったという気がする。
後から勝ち馬に乗るんじゃなくて、もっと早くからサポートできたらよかったのにと。


読者を映す「鏡」 September 26 2014


■朝日新聞社の慰安婦報道問題について

そもそも、俺は「いまだに紙の新聞が存在している」こと自体が、よくわからない。

もちろん、昔を振り返れば、俺の実家でも新聞をとっていたし、身近な存在だった。朝日新聞はとっていなかったけど、小中学校のときに、受験に役立つということで、天声人語をまとめた本を読破していた時代もあった。今から振り返ると「あんなの別に意味なかったな」と思うけど。

でも、ネットニュースが瞬時に流れてくる昨今、何時間も遅れて流れてくるような新聞って、ものすごくアナログなメディアに思える。

加えて、メディアはどんなに公明正大に見えても、スポンサーというものがついている。スポンサーの意向に反することを基本的にメディアは書かない。その原則をふまえないで、そこに書いてあることがすべて真実だと思ってしまっている人が本当にいるとしたら、俺はむしろ、その人たちのほうが心配になる。

■そもそも「絶対に信用できるメディア」なんてない

こう言ってはなんだけど、新聞に限らず、メディアなんてどれも「いいかげん」だ。とくに雑誌はひどい。自分も名前が世間に出て「書かれる側」になってはじめて「ああ、こういうものなんだ!」とわかったところがある。「これが真実だ」と書かれている記事に、まったく、ひとつも真実がない。ゴシップ雑誌だけじゃない。わりと硬派な雑誌であっても、事実の裏取りもせず、意図的に解釈をゆがめた記事が多かった。

だから、俺はそもそもメディアというものを信用していない。ゴシップや誇張たっぷりの見出しが書かれた雑誌を見て、いつも「誰が買うんだろう」と思う。でも、買う人がいるんだよね。

記者がなぜそういう嘘の記事を書くのかというと、やっぱりそういうものを「読みたい」と思っている読者がいるからだろうと思う。それも、少なくない数で。

誇張されたゴシップも、捏造記事も、そこに「需要」があるから「供給」が生まれる。そうした記事を書けば売れる。だから、そこにスポンサーがつく。ここにも「システム」ができあがっている。

「報道」と名前がついていたとしても、今のメディアは、エンターテインメント以上のしろものではないのだと思う。なりえないのか、なろうとしていないのかはわからないけど、どうも否定できない事実のような気がする。

今回の朝日新聞の問題に対する批判も、義憤というよりは「ざまあみろ」という空気が色濃いなと感じた。企業の不正が発覚したり、有名人がドラッグで捕まったりしたときに盛大にバッシングするのとまったく同じ心理で、石を投げている人のほうが多いように思う。実際のところ、どうなんだろうか?

今の多くのメディアは確かに“ゲス”で“嘘つき”かもしれない。でも、それはしょせん読者が“そのレベル”なのであり、よしあしを見分ける能力も失っている」ということなんだろう。

だから、この問題に教訓があるとしたら、それは「メディアの質は読者の質をそのまま反映する」ということを思い出させてくれたことだと思う。

■歴史上の「真実」を追うことの意味

素朴な疑問なんだけど、過去の歴史のすみずみを掘り起こし、繰り返し報道することが、果たして国と国の平和につながるんだろうか? こういうことを言うと批判がくるかもしれないけれど。過去の歴史を風化させずに未来への教訓にする、というのはもちろん正しいことだと思うけど、それだけに縛られてしまうと、関係が前に進まないと思う。

たとえば、日本の原爆投下にしたって、「落とす必要がなかったにも関わらず、アメリカが実験とソ連の牽制のために落とした」という話なんかがあるわけでしょう。歴史における「真実」を検証しだしたら、恐らく無数の「嘘」と格闘することになると思う。

だから、歴史における「真実」を突き止めることにそれほど意味があると思えない。いや、意味はあるのかもしれないけど、それで、過去の歴史を引きずって仲が悪くなるんだったら、本末転倒なんじゃないか?

  歴史からの教訓を大事にすることと、歴史に縛られてほかの国の人を偏見の目で見ることは、別の論理だと思う。そこを混同してしまうと、やっぱりおかしなことになる。

アメリカにいた頃から、メディアが語る「真実」を信用したことがない。もちろん、天気とか、災害ニュースとかは、ある程度信用し受けとめている。でも、「アメリカ政府は、今回こういう理由があって、この国を攻撃しています」といったニュースを、そのまま受け止めるなんてことはありえない。そこには必ず何かしらの報道規制や意図がからんでいるはずだから。

最近は、スポンサーに頼らず、寄付金で取材・運営費用をまかなっている独立系のメディアも増えてきている。けれど、日本にも、アメリカにも、世界中のどこにも「絶対的に信じられるメディア」なんてない。

そう考えると絶望的な気分になるかもしれないけど、「何を信じるか」というのは、それぞれが自分の中で決めておくしかないんじゃないかと思う。

最後に「真実」について少し補足すると、俺が映画を作るときの「真実」は、報道で言われる「真実」とはまったく別のところにある。やっていることは全部フィクション、いわば「嘘」だから。

映画の「真実」の指針は、人間の感情。そこにしか「真実」はない。
少なくとも、俺はそう捉えている。「苦しい」「うれしい」「楽しい」といった人間の感情にできるだけ寄り添っていくことで、作品を「真実」に近づけていく。

ここでも何が「真実」か、ということはまったく変わってくる。

メディアに対して「真実を報道しろ」という前に、自分にとっての「真実」がそもそも何なのか、一度考えてみてもいいんじゃないだろうか。

【今週のキリヤ語録】
今の多くのメディアは確かに“ゲス”で“嘘つき”かもしれない。でも、それはしょせん読者が“そのレベル”なのであり、よしあしを見分ける能力も失っている」ということなんだろう。