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コラム August 2014
August.01 2014
Fri Aug 01 2014 00:00:06
August.01  2014  

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コラム August 2014


自主規制 August 1 2014


僕は海外で長く暮らしていた。いまでも仕事で、たびたび海外に行く。

日本に帰ってくると、ひしひしと感じる。この国は、本当に「自主規制」だらけになってしまった。

法的な意味ではない。人々の空気感みたいなものが、みんな「行動を制限しよう」「思想を狭めよう」と、小さく縮こまっているようだ。

これをやってはいけない。あれもやってはいけない。

他人に言われて、そうするというよりも、自分から能動的に、行動にブレーキをかけてしまっている。

本来ないはずの枠組みを、勝手につくって、その中から出ていかないことが、「安全」で「善良」だとされている。

どうしてだろう?

枠の中が安全で、善良だなんて、誰が決めているのだろう?

その空気みたいなものは、日本人特有の、調和の精神。すなわち和をもって尊しとなすという文化と、通底しているのかもしれない。

和を乱す奴が、組織ではいちばん嫌われる。

和に沿わない奴が、いちばん損をする。と、思いこまれている。

和が、守られるべき道徳の最も上位に置かれている。

それはそれで悪いことではない。和を尊ぶ精神が、よい方にはたらく面もある。和を大切にすることで多くの企業は経済成長を成し遂げ、GNP もGDPも世界トップクラスに上り詰めた。戦後から数十年で、ここまで経済的に伸びた日本人の勤勉さは特筆すべきだ。

しかし和のバランスを維持するために、誰が決めたかよくわからない自主規制で、僕たちの行動が制限されることについては、どうだろうか。

自主規制に縛られることが、幸せだろうか?

人は、言いたいことを言わなくちゃいけない場面がある。

やりたいことをやらなくちゃ、解決しない場面がある。

「これをやっちゃダメ」「あれもやっちゃダメ」その言葉の圧力に追いこまれ、枠の中に閉じこもってしまうと、解決できるはずの問題は残ったまま、いつまでも枠の中に残っている。

やがて僕らは、枠の外への出口を見失う。そこで偽物の「安全」「善良」にくるまれ、浮遊したままの問題に、やがて食い尽くされてしまうだろう。

枠から、はみ出よう。

簡単なことだ。言いたいことを言って、やりたいことをやればいい。

トラブルを起こせと言っているわけではない。人に迷惑をかけろと言っているわけでもない。

「自主規制」なんていうのものは、勇気を持って破ってしまえばいい。

誰も、罰したりしない。破ってしまえば、「自主規制」は幻であることに気づく。

新しい技術。新しい思想。伝統やしきたりの中にはない、新しいルール。

そこに、枠の中の「安全」や「善良」が提供してくれなかった、人を自由に解き放つ本物の希望がある。

壁があれば素手で登ればいい。

川があれば服を脱いで泳いで渡ればいい。

周りは、危険だからやめなさいと言うかもしれない。けれど、その先に行きたいのだったら、踏み出すより他はない。

同じ場所に止まっていたいというなら、話は別だ。

一切ケガをしたくない。何ひとつ傷つきたくないというなら、いまのままでいいだろう。

しかし同じ場所に止まっていることが、実は最も危ないことだ。新しい情報は奪われ、思考する必要を奪う。

そして、自分以外の誰かに、大切なものを奪われていることに気づかない環境が、当たり前になってくる。「自主規制」の文化とは、そういうこ とだ。

枠を超えよう。

自分の手と足で。

枠の中の「安全」も「善良」も、幻想だ。

他人との調和ではなく、自分自身の調和を求めて、外に出よう。


10代の夏の思い出 August 1 2014


--夏休みシーズンです。紀里谷さんの10代の夏の思い出を聞かせてください。

小学校時代は、ずーっと遊んでましたね。中学に上がってからは部活三昧。バスケ部で、汗だくになってました。……それ以外に夏休みの思い出は、ほとんどないですね。15歳になると渡米。夏は、世界各地をひとりで旅してました。ロンドンの安い宿に泊まって、ボーッと過ごしたり。パリも行きましたね。いま思い出したけど、アメリカで知り合って、好きになった女の子を、追いかけて行ったんだ(笑)。パリの住所を訪ねて、驚いてくれるかと思ったら。彼女には「何しに来たの?」って、キョトンとされました。青春の苦い思い出です。

--旅行も、おひとりなんですね。

そう。普通の男の子は、夏休みというと友だちと海に行ったりキャンプしたり、するらしいですけど、渡米してからの10代は、友だちと何か行動を一緒にする、という体験をしてないんですよね。いつも、ひとり。どこへ行くのも、ひとりでした。
誰とも関わりたくない、ひとりが好き……と気取ってるわけじゃないんですよ。
何ていうのかなぁ。人と、どう関わっていいのかわかんないんですね。映画制作の現場では、たくさんの人と深く関わっていかないとダメなので、コミュニケーション上手と思われてますけど。そういう意味じゃなく、もっと根源的な部分で、人と関わる方法を、よくわかってない。

--とすると恋愛も苦手では?

あまり上手ではないかもしれないですね。少し前に、ある女の子から、「紀里谷さんは一緒にいても、ひとりでふるまってるみたいな気がして寂しい」と言われました。そう言われても……ねえ(苦笑) 。でも本当、しょっちゅう言わわれますよ。「いままで付き合ってきた人はもっと喋ったり、構ってくれるのに紀里谷さんは放ったらかしで冷たい」とかね。別に冷たくしてるわけじゃないんですよ。普通に喋ったり、構ってるつもりなんだけど……。自分以外の誰かと、時間や体験をシェアするという「普通」の感じが、身についてないんですよね。さらに言うと、それって楽しいの?とさえ思っている。
一方で、寂しがりやでもあります。人との繋がりで満たされないものを、何とか自力で満たしたいという気持ちは、かなり強いです。でも一般で言うところの「孤独感」とは、だいぶ違いますね。基本的に、ひとりでいることに違和感はないんですよ。みんなでワイワイしてたい、仲間と一緒に騒ぎたいと思ったことはない。だけど、ひとりでいることはネガティブであるという認識が、世間一般にはあるでしょう。業界人の集まるパー ティ会場に行っても、ひとりでいることを放っておいてくれないというか……別にこっちは、ひとりでボーッするので、完結してるから、いいんですよ。大勢の中で、どうふるまっていいのかも、わかんないし(苦笑)。無視しててほしいというんじゃなくて、何ていうのかな。僕が求めているのは、そういう仲間とか友だちとかの繋がりじゃないんだけど、というややこしい感情を共有してくれる人がほとんどいない、ということが寂しいのかもしれない。

--かなりややこしいですね。

だから恋愛では、セックス以外は下手だと言ってる(笑)。これは父親に似ているのかもしれないですね。先日、アメリカの友人に、ディナーパーティに招かれました。広い家に、何人も子どもがいて、親子みんなでニコニコ笑って話している。愛にあふれているんですよ。楽しいのは 楽しいんだけど……ものすごく居心地が悪かった。僕のなかにはない、家族の光景だから。
ウチは四人家族なんですが、でも四人そろってご飯を食べたことなんて、ほとんどありません。いつも父親がいない。どっかに行ってる。家族という団らんの中で、自分がどういう顔をしていいか、何を話していいか、わからなかったんでしょう。その居心地の悪さを、そっくり僕が受け継 いでしまいました。
恋愛でも、友人関係でも、ある程度深く付き合うようになると、相手は愛をくれるんですが。こちらからの返し方が、まったくわからないんですね。すごく感謝しているのに、愛を返す最適の方法を、持ってないというか。返さなきゃ返さなきゃ!と焦っているうちに、フラれるというパターンが多いです(苦笑)。いっぱいの笑顔とか、熱いハグとかでも充分いいんでしょうけど。それが上手く、やれないんですよね。
ある意味で、すごく昭和の男だと思う。ひとりが気楽で、愛の返し方を知らないというのは、いかにも古めかしい日本人男子。よくアメリカ人っぽいと言われますけど、逆かもしれない。僕自身は、日本人の心性が強いと思います。


「美しさ」について August 8 2014


■「美しさ」って何?

――ちょっと抽象的なんですが、「美しさ」とは何なのかということについて。何を「美しい」と思うのか、美に対する感覚は人によって違うと思いますが、紀里谷さんの考えを聞かせていただけますか?

「美しさ」とは何か。

こういう問題について、俺はいつも逆説的に考えるクセがあるんです。
だから、まず反対の概念、つまり「醜さ」とは何なのかということを俺なりに考えてみることにします。
どんなものが「醜い」のか、と考えていくと、「醜い」ものって、皮肉なことにすべて人間にひもづいているんですよね。人間が行うもの、人間が作ったもの、人間が関与したもの。

「そんなことないだろう」と思った人は、自然界に起こることで「醜い」ことをひとつ挙げてみてください。なかなかないでしょう?

たとえば、地球のどこかで火山が爆発して、多くの人間や動物が溶岩に飲み込まれて死んでしまったとする。非常に悲惨なことではあっても、それが「醜い」現象かと言うと、ちょっと違いますよね。その現象自体に、何も「醜さ」はないはずです。

「美しさ」は、自然の中にすでに存在している。「醜さ」は、人間の行為が介在するときにしか生まれない。これを前提として、もうちょっと考えてみたいと思います。

■「分ける」ことによって失われるもの

たとえば、ガザの空爆の問題について考えるとき、そこには人間の持つ残虐性を感じるし、「醜さ」を感じる。

なぜ、あそこまで残酷なことをやってしまうのか?
そもそも、なぜそういうことが起こってしまうのか?
「醜いもの」を見つめていったとき、その根本には「区別する」という行為がある気がする。

たとえば「あなたはパレスチナ人ですよね」「私はイスラエル人ですよね」。
あるいは「お金持ち」「貧乏な人」、「男」と「女」……。
人間は、さまざまな概念を使って区別しようとする。
その行為が、そもそもありのままの自然からすると「不自然」なことですよね。
「区別すること」が、美しくないものを次々と生み出しているように思えるんです。

ありとあらゆる分割が行われるときに、そこに「醜さ」が表れるんじゃないか。

――「区別」が醜さを生み出すのは、なぜなんでしょうか? 

つまり、分けることで何が起こるかというと「比較」が生まれるでしょう。比較が生まれると、どうしても「優劣」を争うようになる。

そうすると「どちらが上でどちらが下か」という議論のもとに、無数の争いが引き起こされる。結果として、お互いの血を流すような悲惨な戦争も起こってしまうんじゃないか、ということです。

もっと小さな問題、この間の東京都議会のセクハラヤジの問題だって同じことです。「だから男は」「だから女は」という、立場に分かれて争うこと自体が不幸の始まりなんですよ。何でもかんでも区別して、押し込めようとするスタンスが、結局は学校の中のいじめにもつながっていっている。

じゃあ、人間にとって「美しいもの」は何なのか。
それは、おそらく「区別」の真逆の概念です。

それはつまり「調和」ということなんじゃないでしょうか。

「調和」は美しいものである――この言葉に異論を唱える人はいないでしょう。けれど、みんな日常では「区別」ばかりしてしまっている、というのが現実です。

――今伺った定義だと、たとえば国の法律なども「美しくない」ということになるんでしょうか?

「調和を信じない」という前提に立って作られるのが法律ですから、「美しくないもの」の筆頭だと思いますよ。

自然界にも、ある動物がほかの動物を見て、自分とは違うと認識したり、ということは当然あるでしょう。けれど、人間は動物と違って、自分たちが作り上げた区別を、未来に受け継いでいってしまうんですよ。だから、必要以上に分割が起きて、偏見が生まれてしまうんじゃないかな。

■「美しさ」とエゴ

――紀里谷さん自身が、最近「美しい」と思ったもの・ことはありますか?

じつは、最近は何を見ても「感動する」ことがほとんどないんです。どこに行っても、驚けない。世界に対する懐疑みたいなものが強くなっているからなのかな?

それでも、俺は自分の自我が崩壊して、すべてが溶けていくような感覚になったときに「美しいな」と思います。

「美しさ」を説明するのに、恋愛はいい例です。

恋愛をしているとき、人は相手とひとつになって調和するような気持ち――“錯覚”に陥る。自我が崩れて、境界線がなくなるような感覚がある。だから、みんな恋愛に美を見出すんだと思う。

もちろん恋愛だけじゃくて、友情も同じです。仲のいい友人とつきあう中で、「こいつとの間には何の隔たりもないな」という感覚になったときに、人はそこにある種の美しさを感じるんだと思います。

――「自分の自我が崩壊する」というのは、どういうことですか?

自我はエゴと言い換えてもいいと思うんですが、自分を包みこんでいる殻みたいなもの。そこに少しでもひびが入ったときに、人は美を見つける。「感動」ってそういうことなんじゃないでしょうか。たとえば、映画を見て泣いてしまったりすることがありますよね。この「泣く」という行為も、エゴが崩壊する感覚に近いものがあると思うんです。

人間の中に存在するエゴの立場からすると、自分の存在をキープしたい。一方で、感動すると気持ちがいいということも分かっている。そこに人間の矛盾があるような気がします。つまり、「感動したいけど、普段は感動してはいけないと思いこんでいる」という状況がある。ちょっと複雑ですが。

■生き方の延長線上に仕事がある

――紀里谷さんは、人前で泣くことはありますか?

それは、ありますね。この間はニコ生の放送に「なぜ、ガザであんなことが起こってるのか」と考えていたら、涙が出てきてしまって。

俺は、つねに「なんでこんなことになっちゃうんだろう」という苛立ちがあるんです。ガザ地区の殺戮の問題だけじゃなく、世界に存在するありとあらゆる不条理に対して。自分が何もできていないことに対して非常に「悔しい」と思う。

ですから、今は映画の製作に打ち込みつつも「映画なんて作っている場合なんだろうか」なんて思うときもあります。「撮るのであれば、映画の力を最大限に利用するようなものを作らないといけない」という思いもある。

映画監督という仕事は、もちろん素晴らしいと思うけれども、一方で「この職業と同一化してはいけないな」という感覚あるんです。自分自身の生き方がきちんとあった上で、仕事として映画監督をやっている、という形が正しいんじゃないかと。

みなさん、自分のことを語るときに、だいたい「自分は映画監督だから」「野球選手だから」「会社員だから」というように「職業」が一番最初に来ることが多いですよね。

それ自体は別に非難するべきことじゃない。ただ、「職業を通してしか自分を表現できない、自分の価値が見えない」となると、何かが欠けているような気もする。

たとえば、自分が好きか、どれだけ正直でいられているか、人にやさしくできているかという「人間としてのクオリティ」は、仕事とはまったく無関係のクオリティじゃないですか。職業によらずに「個人」としてどう生きるのか、ということを問われる時代が来ている気がしているんです。

だから、俺自身も人間としての自分、動物しての自分というものを、考えていかないといけないと思っている。その延長線上で、何かものを作っているというスタンスでありたい。

――そういう「強い自己を作り上げる」のは、純粋に「職業と一体化して生きていく」よりも、大変な作業になるのでは?

しかし、子どもの頃はみんな「自分はこの職業だから」なんて意識せずに、そこに自然に存在していたわけでしょう。大人になるにつれて「こうでないとダメだ」と思い込んでしまっているだけで。

俺の場合は、10代のうちから「社会の中でしっかりと立ち位置を築き上げなくてはいけない」「成功しなくてはいけない」という思いが非常に強かったんです。「本来の自分」から目をそらしてきた部分がある。だから、とくに再確認しないといけないと思っているのかもしれません。

■最後の希望は想像力だと思う

――映画を撮るスタンスが、最近変化していると伺いましたが。

『CASSHERN』や『GOEMON』を撮っていたときは、映画を撮ることで精一杯だった。撮ること自体に意義を見出していたし、作品によって、自分自身が認められたらこんなに嬉しいことはないと思っていました。けれど、今は、必ずしもそういうことを求めてはいないですね。

何て言うか「どんなにいい映画を作ろうが、どんなにヒットしようが、今、ガザで空爆を受けている人たちにとっては、何の意味もないよな」と思うときがあるんです。こういうことを言っては、身もフタもないんですが。

ただ、そういう悲惨なことが起こっているということを「認識すること」はできる。もし、自分がガザで空爆を受けている人間の立場だったら「そういうことを思ってくれている人がいる」だけで、ほんの少し救われる。地球の裏側に居てたとえ何もできなくても「自分たちの窮状を思いやってくれている人がいる」というだけで嬉しいと思うんですよ。

だから、最後の希望はそうした「想像力」なんじゃないか思うんです。

――安易な発想かもしれませんが、世界中の不条理を訴えるようなドキュメンタリー映画を撮ろうという気持ちはないんですか? 

確かに、そうアドバイスしてくれる人もいますし、その通りだと思います。けれど、やはりそれ以前のものがないと、ダメだと思うんです。

映画より、写真よりも、情熱が傾いてしまうのは、ただただ「不条理」に対してなんです。一部の人の恐怖や虚栄心のために、大勢の人が死ぬようなことが起こっている。そして、そのことに対して、日本を含めた先進国の人々があまりにも無関心ということ。

――アメリカではガザ地区のニュースはきちんと流れているんでしょうか?

日本よりもたくさん流れていますけれども、だからといってそれで空爆がやむというわけじゃない。サラエボで紛争が起こったときも、アメリカが介入して止めたんでしょうけど、結局終わらなかった。

――今、ヨーロッパではイスラエル批判とともに、反ユダヤ主義が広まっているという報道もありますが。

そうやって国や人種で「区別」していくと、果てしなく連鎖が続いてしまうと思うんですよ。日本だって中国や韓国を支配してきた歴史があるわけだし、アメリカだって、インディアンの先住民を抹殺したときから、負の歴史がある。そういう意味では、イスラエルのユダヤ人の人たちも、昔ナチスにやられたことを、敵を変えて今やりかえてしているだけとも言える。その連鎖って、人間を「人種」というくくりで捉えている限り、延々終わらないですよね。そうなると、俺の中では「人間って醜い生き物だよね」という結論になって終わってしまう。

こうやって話をしていても「戦争なんて、今のところは自分たちには関係ない」と思っている人もいるかもしれない。でも「搾取」や「支配」って、じつは俺たちの日常の中にもあるわけです。食事とかがいい例で、俺たちは普段、ありとあらゆる生き物を殺して食べている。でも、そういう事実は、多くの場合無視されてしまっている。

遠い国での戦争も、同じことです。自分たちが消費するために、今、この瞬間もどこかで搾取が行われているということ。それは地球の裏側にいる俺たちには「どうしようもない」ことかもしれない。でも、だからといって「知らなくていい」ということにはならない。

その事実は変えられなくても、その事実を見ようとすること、理解しようとすることが大事なんじゃないかと思います。本来は美しいはずの世界を「醜いもの」にしてしまわないためにも。


(参考)

どうしてガザ地区の住民はどこにも逃げ出せないのか

ガザ空爆ゲーム、抗議殺到で削除 イスラエル機で「ハマス」を攻撃する内容

ガザ戦闘:イスラエル批判が反ユダヤ主義に 西欧に兆候


地球と人間 August 15 2014


エボラ出血熱のアウトブレイク
「僕は地球が、何かのバランスを取ろうしているように感じます。人間の身体に白血球があるように、止めようのない免疫システムが動き出したような。エボラウイルスは地球全体の白血球という考え方もできると思います。
こういう免疫システムは時々、起こります。人を次々に襲って死に至らしめるウイルスが、なぜ発生するのかということを突きつめて考えると、「必要だから」としか考えられません。こんなひどいことばかりしていたら、地球はいつか人に殺される、だから排除するという免疫システムが、動き出しているのだと僕は思います。
地球にとっては人間はウイルスと同じです。ウイルスは面白い存在で、寄生した母胎を死に至らしめることは、あまりしない。死にそうになると母胎への攻撃をいったんやめて、回復を待ちます。これは人間のエコロジー活動と、同じですよね。温暖化を何とかしようというのは、地球という母胎を生き長らえ させようというウイルスの発想だと思います。
エボラ出血熱もSARSもそうですが、急に発生して、ある時期がくると終息していく。地球の免疫システムが目的を達成するからではないかと。おそらく今回のエボラの流行も、ある一定の犠牲者が出たところで、自然に、消えていくのではないでしょうか。アウトブレイクで世界の人口がゼロにはならない のは、バランスのとれる適切なラインが、地球にあるからだと考えられます。
やや話は飛びますが。何らかのシステムが作動して、違うものが結合すると、大変な熱とエネルギーが生じます。それが戦争や、核兵器だったりする。そのエ ネルギーをもって、大いなるユニオンが誕生する。だから虐殺や爆発も、大きな視点でみれば必要なのだという考え方もあるでしょう。 僕は、断固として抵抗します。そのユニオンの犠牲が、あまりに悲惨で残酷すぎる。美が何ひとつ感じられない。前にも言いましたが、この世界では人のすることだけが醜いんです。シマウマがライオンに食べられる姿は、凄惨かもしれないけど、醜くはない。しかし戦争で、子どもを粉々に撃ち砕くことに、 何の美があるというのか。
誤解されるかもしれませんが、僕はウイルスの拡大を、何が何でも阻止しなければいけない、とは思っていない。どこかで自然に、調和の整うラインがやってくると思います。


帰属意識 August 15 2014


夏の高校野球の開幕
「プロ野球よりは興味あります。出身校だとか、地元の子どもの頑張りを応援するという感覚は、僕もわかります。しかしプロ野球は……本当によくわからない。試合ではなくて、応援するファンの心理。例えば巨人ファンって、何に感情移入してるんでしょう?東京という地理に基づいてなのか、そうでもないような。選手は入れ替わるし、移籍などで敵チームだった選手が入ってきたりする。少し前まで、罵っていた選手を、巨人に入ったというだけで声援を送るようになったりするでしょう。わかんないなぁ……。
広島カープのようにお金がなくて、チーム内で選手を育てるハングリーさを応援する、というのはわかります。けど巨人みたいに毎年、他チームの主力を獲ってきて、勝ちまくったとしても……何の感動があるんでしょうか。
巨人に限った話じゃなくて、どのチームにも同じようなことがある。特定のチームに感情移入して、エネルギーを費やして応援している人って、何なんでしょう?帰属意識というか、縄張り意識なんでしょうか。
高校野球は、近年やっと日程に休日ができたり、投手の酷使を控えるようになってきたようですね。ヤンキースの田中将大さんなどは、いまのケガは高校野球の連投が影響していると言われますが、なるほどと思います。いかにも日本的というか、根性論で動く世界は怖い。

−−その通りですが一方、人が無益とわかっていても何かに没頭する姿は、美しくもあります。

「不思議ですね、人間は。そうとしか思えない。ロジックとか理性を超えたことを、なぜかやっちゃう。それが争い事を生んだりする。宗教の根底かも しれない。
やっぱり人間は、変な生き物です。ローマ時代のグラディエーターとかね。ああいうことを、正気でやれてしまう。頭があんまり、よろしくない生き物です。
高校野球から、話がすごいところまで来ちゃいましたね(笑)。


日本映画産業の苦しみ August 15 2014


スタジオジブリが制作部門を解体
「いたしかたないと思います。ジブリの経営がどうこう以前に、あれほどメジャーなスタジオが制作部門をストップしないといけないというのが、日本の映画業界のいまの苦しさを象徴してますよね。繰り返しますが、現行の興業ビジネスはもう限界にきてるんですよ。映画産業というわれるものが変革しない限り、先は見えません。
大きな問題のひとつは、つくった人たちにお金が、正しく落ちていってないこと。映画界の既得権益層にいつまでも吸い取られていると、僕には見えます。ビジネスの構造が複雑なのではなく、古くさすぎるんです。何で利益供与しないんだ、と思う。先進的だと言われるアメリカも、いろんな組合が破綻の危機にあります。クリエイターたちが途方に暮れてますよ。現地のミュージシャンと話すと、事態はかなり深刻。アメリカも苦しいんです。
じゃあ映画はもうなくなるかというと、そんなことはないでしょう。つくられ方が変わるだけで、作品の供給は続きます。『ラスト・ ナイツ』も日本をバイパスしながら、既存の興業システムではない方法で、お客さんに見てもらえるよう、新しい試みをするつもりです。

−−ネット配信で見られるということでしょうか?

「もちろん。劇場公開もしますが、配信を同時にやります。アメリカでは当たり前のこと。劇場にわざわざ来てもらうより、お客さんの自宅に届けるのが、一番いいわけですよ。
DVDも、いずれなくなっていきますね。アメリカでは、とっくにDVDはない。映画は公開と同時に、自宅のソファでくつろぎながら、ポチッとボタンを押して、テレビで見るというのが主流になると思います。『ラスト・ ナイツ』はスマホの画面で見てもらってもいい。とにかくたくさんの人に見てもらって、回収できればいいんです。監督だけやっていたら、こういう発想にはいかなかった。プロデューサーをやっていたからこそ、見えてきたものがあります」

−−紀里谷さんはそもそも、日本の劇場で映画を見るという体験が少ないのでは?

「ほとんどないですね。映画は、だいたい家で見てます。それでいいんじゃないでしょうか。見たいのは映画であって、劇場へのロマンチシズムはありません。みんな、そうじゃないですか?映画が好きだという人も、だいたい家のテレビで見てると思う。ジブリがああなったのは、本当に象徴的でしょう。新 作映画を劇場公開で回収するというビジネスは、やがて行き詰まるという。ジブリ映画だって実は、テレビで見てるという人の方が多いはずです」


映画の可能性 August 15 2014


−−『ラスト・ ナイツ』のアメリカでの作業をいったん終えて、帰国されました。少し休まれるのでしょうか?

「いや、僕には休みという概念がないです。スケジュールのない日をつくっても結局、何かしらの作業をやっている。それにいまはアメリカのスタッフ とのやり とりが頻繁で、携帯電話を片手に寝てるような状態。連絡がきたら、こっちの時間とか関係なく、すぐレスポンスしないといけないので大変です。気の 休まる時 間はほとんどありません。近いうちまたアメリカに行くことになりそうですし、処理しないといけない書類も山ほどあって。次の新作の脚本を読まない といけな いし……ふと何やってんだろう?と思いますよね。人生そのものを考え直さないといけないね(苦笑)。
ずっと言ってることですけど、切実にプロデューサーがほしい。『ラスト・ ナイツ』でも監督業だけに専念していられないから、やることが途切れないんです。鈴木敏夫さんのいる宮崎駿さんが、すごく羨ましい」

−−『ラスト・ ナイツ』でもプロデューサーを兼任されているんですよね。

「そう。製作をやって、あらためて痛感しましたが。映画ビジネス自体、岐路に立たされているような気がします。ビジネスモデルとして、お金の回収 が難しくなってきている。音楽ビジネスに近い状況ですよ。CDが売れないから、新曲を出しても、ビジネスにならない。アーティストやレコード会社は、ネット配信やライブビジネスの方に移行しつつあります。映画もHuluなんかが出てきて、月額いくらで好きな作品を見放題できるわけでしょう。映画館に行って1800円を払ってもらって……というビジネスは、残っていかないと思う。アメリカは映画ビジネスの退潮を見越して、近年はテレビドラマに注力してますね。クリエイティブの比重が、映画からテレビドラマに移っています。だから元気ですよ、アメリカのドラマは」

−−従来の映画ビジネスの場合、資金を集める・製作・公開する・興収で次の映画をつくるというのが、ざっくりとした流れですよね。

「そういうモデルが、もう古い。資金を集める・製作ぐらいまではいいんだけど、劇場公開というのがね。劇場で映画を見る行為は楽しいし、否定はしないんですけど。何か、贅沢な感じがするんですね。いま映画館に行くなんていう人は、少数派でしょう。
ディズニーアニメとかハリウッドアクションとか、家族みんなで揃って見に行くようなイベントムービーは劇場で見て、作家がアーティスティックに つくるドラマ作品は、違うところで見られるとか、住み分けが進んでいくと思います。文芸ドラマなどは、もう劇場用にはつくれない。限定公開とか、ネット配 信するとか……。

アメリカでは「ドラマ」の劇場映画は、ごく一部。イベントとして楽しむ映画は劇場で、ドラマを見たいならテレビで、という分け方がはっきりして ます。日本でも『るろうに剣心』や『進撃の巨人』みたいな大きな作品は、劇場映画として制作されていくでしょう。そういう大きな規模の作品を、僕自身がつくりたいかというと……どうだろう。
やっぱり、いまはドラマをつくりたいですね。映画ビジネスとして大作を撮ることより、ドラマの方に気持ちは向いています」

−−そうなったのは最近ですか?

「いえ、もともと興味の対象はドラマです。ドラマを映画で成立させようと、ずっと努力してきました。テレンス・ マリックやラース・ フォン・トリアーが好きで、彼らみたいなスタンスで映画をつくりたい。しかし、いきなりマリックやトリアーのやり方で初めてしまうと、めっちゃ狭いところ に押しやられてしまう。それが嫌だったんです。僕のやり方が正解だったかは、わからないですけど。10年ほど模索しながら、ハリウッドでいい脚本 を見つけ て新作を撮るところまで来られたのは、良かったと思います。そして次はドラマを、世界規模でやれるチャンスがある。ありがたいですね。

以前は「映画監督です」というところに自分の存在意義を見いだしていました。いまは、そういうのはまったくありません。作家だという以前に、人間としてどうなんだということを、真剣に考えている。ありたい姿になろうとしているというか。僕という人間が、たまたま映画を撮りましたという立ち位置でいたいです」

−−最近はバラエティ番組にも出演され、共演された蜷川実花さんから「変わったね」と言われてましたね。

「そうかもしれない。昔は正面からしかいかなかったから。最近は、別に横からいってもいいんじゃないの?と考えるようなった。柔軟にはなってきたんでしょう。
何かを成すとか、何かに成るというのに意味はない。そのまま「在る」ということに、意義があるんだと思えるようになった。映画を撮り始めたとき は、大き なバジェットでヒットする映画を、新しい試みでつくりあげる実験をしていたんですね。制作することに喜びを感じていて、そこにメッセージを乗っけ ていたという。ビジュアルとしての「映画監督」にとらわれてたと思います。

『ラスト・ ナイツ』を撮ってからは、何を言いたいのか、世界がどうあってほしいのか、その問いが軸になっています。そこでお芝居や音楽 を使いますよ、という。ツールにはこだわりません。一貫した思想がベースにあって、方法は何でもいいんです。映画監督というのはいまのところ一 番しっく りした肩書きではあるけど、本質的には適切ではない。僕自身は、肩書きの前に人であり、どういう考え方、哲学で生きるのかというものを見つめていきたいと思います。

テレビとか、一時期は出演依頼はぜんぶ断ってました。でも母親から「そんな何でも拒絶ばかりしてたらダメ」と言われて(苦笑)。届けないといけない人に届けていくためには、多くの人が目にする媒体に出て、自分の言葉で話していかなくちゃいけない。行きたくなかったところにも、積 極的に出向いて行こうと思うようになりました。前みたいに、何でも断ったりしてません。

−−いい変化ですね。

「テレンス・マリックだって寡作の芸術家と評されてますが、言いたいことを言うために、やるべきことをやっているでしょう。『ツリー・ オブ・ ライフ』は素晴らしい映画だと思うけど、ブラッド・ ピットとショーン・ ペンが出演してなかったら、何人が見たんだという。日本だと、高畑勲監督の『かぐや姫の物語』は、スタジオジブリのバッ クアップがなければ、企画も通らなかったでしょう。

メジャーな俳優や大手スタジオの支援なしで、すごい作品をつくる天才も稀にいますが。僕はそうじゃないので、やっぱり人に来てもらう努力はしていこうと思います。
ヴィンセント・ ギャロの『バッファロー’66 』みたいな方法で映画を撮りだしていたら、こんなに叩かれることはなかったかもしれません(苦笑)。でもああいう方法で、インディー的に出ていたら、自分の末路が想像できた。直感でしたが、間違ってはいなかったと思います。手順をひとつずつ踏んで、やるべきことをやって、映画を撮っていくのが、いまの僕のやり方です。

−−高畑勲さんの場合も、鈴木敏夫さんという優れたプロデューサーの存在は大きかったでしょうね。

「だと思います。本当に、周りを見渡してもプロデューサーはいない。ずっといい人を探し続けています。制作の世界には、若い人も入ってきてくれるんですけど……映画のプロデューサーという職業も、ビジネスとして成り立ってないのが原因でしょう。お金を稼ぐ才覚がある人なら、これは無理だとすぐ見切 ると思う。数字上のリスクが大きくて、儲かる仕事ではない。だったら証券会社に入ってファイナンスをやった方がいい、ということになる。食うのさえ難しいから。そうなると映画がひたすら好き! と情熱はあるけど、ビジネスが何にもわかってない、いい加減な人がプロデューサーになってしまうという。悪循環ですね。

あと映画では、プロデューサー職があまり重要視されていない風潮も問題でしょう。監督だったら、映画をヒットさせたら次のステップが拓けるきっかけになったりするけど、プロデューサーは、そういうことが少ない。映画は監督のものだという固定観念が、世間的にあるんですね。監督は、とりあえず作品と一緒に名前が残る。でもプロデューサーは裏方のイメージが強くて、作品とセットで名前が売れたりは、あまりしない。『永遠の0』はあんなに大ヒットしたのに、プロデューサーの名前は、一般ではほとんど知られてないでしょう。そういう状況で有能なプロデューサーが育ったり、若い人が新しく入ってくるわけがない。ひと言でいうなら、割に合わないんですよ。すごく大変な仕事なのに。だからテレビ局の社員が、給料をもらいながらプロデューサーを やってくしかないという。
とにかくリスクを負わないように何とかやっていこうという流れも、プロデューサー不足に関係しているでしょう。興業で、誰もが絶対に失敗したくない。オリジナル脚本での映画が激減しているというのは象徴的ですね。映画は、原作のマンガか小説ありき。そもそも新しい脚本が映画には必要なのかという根本的な疑問もありますが……。
−−プロデューサー不足は深刻のようですね。ビジネスとして成り立つ方法もどこかにあると思いますが。

「映画製作それ自体は、問題ないんです。日本では、投じたお金を回収するスキームが、あまりにも閉ざされている。配給会社は国内に限られていて、映画館の数も決まっています。つくった作品を配給・公開のラインに乗せないことには、回収の道がほとんどない。公開のラインに乗る作品は大手の間で取り決 められていて、ラインに乗せるためにまたお金がかかるという……僕ですら嫌になりますよ。「こんなに必死でつくったのに、そんなに取られるんですか?」と。だったらもう映画なんてやらなくていいよって、賢いビジネスマンなら思いますよ」

−−昔だったら徳間康快さんや永田雅一さんなど、豪腕のプロデューサーがいましたね。

「それだとパトロン的なことになって、あまり健康的ではない。いちばん健康的だったのは昭和のスタジオシステムでしょう。映画会社のプロデュー サーのもとで専属の監督と脚本家、俳優がいて、プログラムピクチャーをバンバンつくっていたという。あのシステムがうまくいっていたのは、人がたくさん劇場 に来てくれていたからです。映画館数も多かったですし、映画が一番の娯楽だった。人がたくさん来るところにお金が集まるのは当然なので、映画が儲かっていたんでしょう。

あの頃のシステムには戻れないから、これからはお客さんにどうやって届けるのか?を真剣に考えなくてはいけないと思います。その点、アメリカは進んでいる。自宅のテレビで作品を見るという人が多いから、その人たちに届ける効果的な道を模索しています。いいテレビドラマをつくるのもひとつですが、配信事業が急速に発達してる。劇場映画でも、最初のリリースをちょっとだけ映画館でやって、後は配信で稼いでいこうという流れになっています。アメリカではもう、興行収入は話題になりません。興収どうのこうのというビジネスモデルは、終わりつつあります。

日本ではWOWOWとTBSが組んで『MOZU』のような面白いドラマをつくってますね。あれはいい。劇場映画だけがゴールではない、いろんな試みがされるべきでしょう。
僕は長年、製作も兼ねた仕事を続けています。映画を公開するチャンネルをセッティングするのは、本当に切実な問題です。いい作品はできた、だけ どどこで見せるの?どうやって資金を回収するの?という。ネットを使って、いろんな道を探っていますが、まだまだ途中ですね。でもいずれ仕組みが整っ て、回収 方法はまとまってくると思います。例えばクラウドファンディングで資金を募って、新作ドラマをつくり、有料サイトで公開していくとか。いずれスポンサーもつけたいし、ビジネスが確立したらメルマガの豪華版もできる。『PASSENGER』にオリジナルの連続ドラマをつけたりとかね。可能性は、探っていきます」


生き方と職業 August 22 2014


■生き方を職業から切り離す意味とは

俺は「システム」に囚われるのはもうやめよう、という話をよくします。

一方で、こうやって大上段から責めてもしょうがないということもわかっている。「システム」を否定するということは、自分が積み上げてきたものを否定することですから。

あるシステムの中に入ってある程度の年齢に達すると、やっぱり「諦めて」しまうケースが多い。

そもそも、企業の一員として働く中で「自分が属しているシステムが、間違った方向に進んでいるんじゃないか」と、毎日自問自答し続けられる人間なんて、ほとんどいないと思うんです。

極端な話、武器の製造会社で働きながら自分の家族を養い、子どもを大学にまで行かせたという人がいたとして、その人が作った武器によって地球の裏側で暮らしている人間が、大勢、殺されてしまうという現実がある。

しかし、そのときに、家族のために実直に仕事をしていただけの人を責められないですよね。家ではいいお父さんであり、いい旦那さんであったかもしれない。その人の人生が間違った人生かというと、そうではない。

きれいごと抜きにして、純粋に「人間を救っている」「人間を幸せにしている」仕事が、今、巷にどれくらいあるんだろう? ということですよね。

本当は必要じゃないものも必要だと思わせなければ、企業が、業界が儲からないという現実がある。アパレル業界なんて、先進国向けの低価格のファストファッションは途上国で生産されていたりするわけで。その陰に大規模な搾取が行われていたりする。

今は、問題が明らかになっている原発だって、その産業で食べている人が何千人、何万人といたからこそ、なかなか顕在化しなかったわけですよね。

ビジネスが巨大化してくると、ユーザーの健康や幸せよりも利潤を追求するようなシステムが生まれてくる。それは製薬だろうが外食だろうが、どの業界でも同じだと思うんです。

システムが方向を間違えていることに気づいても、それを認めてしまうと、自分が積み上げてきたものを否定することになってしまう。今までの人生がすべて無駄だった、ということにもなりかねない。

自分をそこまで否定するのは、よほど精神力がないと難しい。

そうならないためには、防衛策としてどうすればいいのか?
と考えると、「生き方」を「職業」から切り離して考える必要があるんじゃないかと思うんです。

自分が属しているシステム、たとえば勤めている企業が進むべき方向を間違っていることがわかったとして、その人に「じゃあ、明日会社辞めましょう」と言ったところで、簡単には辞められない。

「自分の子どもが学校に行けなくなる」「マイホームがなくなる」という経済的な不安もあるだろうし、自分自身がシステムからドロップアウトしてしまうことに対する社会的な恐怖もある。

けれど、社会的な恐怖に関しては、自分の「生き方」を「職業」から切り離しておくことで、少なくとも相対化されるんじゃないだろうか。

そうした変化は、もしかしたら「無責任さ」につながるのかもしれない。けれど、これからの時代は、過剰に自分を職業と同一化させないほうがいいんじゃないか。これは同時に自分自身に言い聞かせていることでもある。

■「不自然」な生き方をやめれば幸せになれるんじゃないか

俺は、すごくわかりやすく言うと「みんなが自然と調和して生きていければ、それが一番幸せなんじゃないか」と思うんですよね。この「自然」という言葉は、必ずしもエコロジー的な思想に偏って言っているわけじゃないんです。

たとえば、朝起きて、普通にごはんを食べて、みんなと一緒に仕事して、夜になれば寝る。生き物として、ごく普通の暮らしの営みです。これが守れれば十分だと思うんですよ。けれど、これだけの成長を進化を遂げた上で、そうした普通の暮らしを(地球レベルで)守ることができるのか。そういう岐路に立たされている。

有名だろうが、セレブだろうが。「それがどうしたの?」とみんなが思う時代がきてほしいと思う。

そういう時代が来ない限り、この世は地獄ですよ。非常に生きづらい世界になっていくだろうなあと思います。

「不自然」という言葉があるように、自然でない。

自分の仕事にも、「不自然」な部分はあります。クリエイティブというよりは、ファイナンスの面で。「美しくないな」と感じる。そこは考えなおさなきゃいけないなと思っています。

■これからの希望について

今までの技術革新を見ても、人間が「工夫」する能力ってものすごいですよね。おそらく人類全ての能力をもってして「工夫」をすれば原発もいらないし、エネルギーが行き渡るし、きっと戦争もなくなるんじゃないかと思うんです。

でも、そういう「工夫」を別にしたくないという人たちがいるから、実現しないんじゃないか。

「分類するのをやめよう」と言っている俺がこんなことを言うのはなんだけど、今、世の中の人は、「みんなでシェアしたい人」と「ひとりじめしたい人」の2種類に大別される気がします。

過去の経済論も、結局はそこに集約される。
希望はもちろん「シェア」派が、工夫を生み出すことにある。
けれど、「ひとりじめ」派は、そういう工夫を是としない。

俺自身、若い頃は「ひとりじめ」派でした。「能力がある人間が、それだけいい思いができるのは当然だろう」と。

けれど、実際自分がそういう世界に片足を突っ込んでみたら、「こういう場所にはいたくないし、ここにいる人たちともつきあいたくないな」と思ってしまったんですよね。僕はすごく貧乏なのも嫌だけど、すごくお金持ちなのも嫌なんですよ。

「ひとりじめ」派の数は、おそらく絶対数としては少ないはずなんです。けれど、能力を持った人の割合が多いから、ものすごく工夫を重ねる。一方、「シェア」派は、それほど工夫を必要としない。現状維持でも困らなかったりするので、革命を起こそうと思わないんじゃないかな。これは、感覚的にそう思うんですが。

世界はどちらかというと「ひとりが全員を奴隷にする世界」の方向に進んでいる。でも、みんなが意識を「シェア」のほうにシフトしていくことができれば、それが希望になるんじゃないでしょうか。

――紀里谷さんは「すごく貧乏なのも嫌だけど、すごくお金持ちなのも嫌」ということでしたが、一方でサラリーマンはとりあえず「お金持ち」を目指して頑張ってるんじゃないかと思うんです。たとえば、堀江貴文さんみたいに「自分の能力でビジネスを立ち上げて、ラグジュアリーな生活をしている成功者」に憧れている人も多いのでは。

どうなんでしょうね。堀江さんも、重要なのはお金ではないというか、「自分がやりたいことができればいい」というスタンスなんじゃないかと思います。

「憧れ」がわけのわからない車輪を動かして、その車輪が暴走することによって人の血が流れている。

そのとき抱いている「憧れ」がそもそも間違っているんじゃないか?と。

こういう状況の中でも、希望はあると思います。けれど、みんなの意識が、今と違う方向にいかない限り、その先には絶望しかないような気がする。

■強い人間を善とするシステム

「強い人間」だけを尊ぶ世界の何がまずいかというと、結局、「強い人間」の座を手に入れた人間も、幸せになれないということなんですよ。

「いつか自分も弱者になってしまうかもしれない」という可能性に対して、恐怖を抱くじゃないですか。ドロップアウトに対する恐怖から、終わりのない戦いに巻き込まれていく。

「自分が損しないように根回ししておかなきゃ」とか「ほかの人間を蹴落とさないといけない」とか、恐怖から生まれる工夫にろくなものはない。

「そういう世界で頑張っていても幸せになれない」ということを、若い世代の人は感覚でわかっているような気がする。

これはただの予測だけど、世界は地域や国家を超越して、「シェア」派と「ひとりじめ」派に人間の集団が二分化していくんじゃないかとも思います。

先進国の中から「シェア」を志向する人がたくさん出てきて、すでに自然と調和した暮らしを実践している国の人々に教わるということもたくさん起こるだろうし、今まさに経済発展している国で「ひとりじめ」志向に傾いているインドや中国の人たちが、つながるということもあるだろうし。

俺はずっと人間を「分けるな」って言ってたけど「もう、ふたつに分けたほうがいいのかもしれないな」とも思います。水と油のように交わらない気がするから。

近年のアメリカには非常にがっかりしている。「なんでこんなことになっちゃったんだろう」と。もっと寛容で、多様性を求める国だったのに、今は非常にシステムにがんじがらめな感じがします。

――アメリカが国として変わってしまったというのは、やっぱり9.11以降なんでしょうか?

そうですね。俺はグリーンカード(永住権)を持っているんですが、もう手放そうかな思っているくらいです。

――「シェア」派と「ひとりじめ」派に分かれたあと、新たな争いが生まれてしまう可能性もあるんでしょうか?

そこはもう、繰り返しですよね。「シェア」を志向する人たちが、結局は駆逐されてしまうのかもしれないし、そこはわからないですよね。


【今週のキリヤ語録】
「憧れ」がわけのわからない車輪を動かして、その車輪が暴走することによって人の血が流れている


リセット August 22 2014


――以前「ジャンルにこだわらず活動していきたい」ということを伺いましたが、小説執筆など、文章を書くつもりは?

俺は根気がないので(笑)、なかなか難しいんですよ。『トラとカラスと絢子の夢』も、「GOEMON」の制作と並行しての執筆だったので、書き上げるまで2年とかかりましたしね。最後は編集の人がつきっきりでいてくれたからこそ、なんとか書き上げられたようなもので。書きかけたままになっている作品もあるんですけど、完成させる予定は今のところない。

――自伝などを書いてみるつもりは?

そう言われることもあるんだけど、それほど自分がすごい人生を送ってきたとも思わないので、書いたところで「俺の人生のストーリーが何を伝えられるんだろう」と。別に卑下したいわけじゃなく、それが正直な気持ちです。最近は、どうも「文章を書く」ことすら、難しく感じるようになってきてるんです。

どうも最近(創作の)手が動かないんですよね。まさに手も足も出ない(笑)。大げさに言うと一回「死ぬ」プロセスが必要なのかもしれない。「死んで生まれ変わる」ような。それが「エゴ」なのか「紀里谷和明」というキャラクターなのかわからないけど、一度リセットしたいなと。名前をまた変えようかな、なんて思ったりしている。

――「紀里谷和明」という名前はキリヤさんのイメージにすごくぴったりだなと思うんですが、本名ではないんですよね。どんな由来や思い入れがあったんですか?

二十歳のときに、ある人からもらったんです。姓名判断的な由来があって。「名前を変える」というのも、いいきっかけにはなるのかなと思ったりしています。