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コラム July 2014
July.01 2014
Tue Jul 01 2014 00:00:35
July.01  2014  

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コラム July 2014


【写真について】vol.01 July 4 2014


少しだけ、写真について語りたいと思います。

まず、写真ほど「疲れる」媒体はないということ。

写真を撮るという行為は、いわば「流れている時間を止める」行為なんです。 ある意味、自然な流れに不自然な力を加えている。だから、メチャクチャ疲れる。とくに長時間をかけて人物の写真なんかを撮ると、そのあとしばらくぐったりしてしまうこともあります。撮影中は、目の前の人とずっと対峙することになる。ここまで集中して人と向き合うということは、恋人であれ、家族であれ、日常ではありえない。だから疲れるんでしょうね。

撮っているうちに、やっぱりその人の本性が見えてきます。

もちろん、自分のほうも嘘がつけません。「まだ腰がひけているな」「この人のことが好きなんだな」とか、自分の立ち位置や感情がありありとわかってくる。怖さを感じることもありますが、そこを踏み越えていかないと、いいものは撮れない。

インタビューなんかもそうだと思いますが、出来上がったものに、自分と相手の関係性がくっきりと浮かび上がる。また、逆にその関係性が伝わる作品でなくてはいけないと思う。

そこに必要なのは何かというと「覚悟」だと思います。

この続きは、また次回に。

(続く)



日本のメディア July 4 2014


■メディアに対するスタンス
――紀里谷さんは、以前どちらかというと積極的にメディアに出られるほうではなかったと思いますが、最近は「アウト×デラックス」など、テレビのバラエティ出演なども増えてきていますね。メディアとのつきあい方、スタンスなどについてお伺いしたいのですが……。
確かに一時、メディアに出ることを嫌がっていましたし、なるべく関係性を持たないようにしていました。しかし最近はスタンスが変化していて、なるべく表に出ていこうと思っています。
「アウト×デラックス」は、番組の中でもコメントしましたが、出演オファーを受けた時点では番組を見たことがありませんでした。ただ、マツコ・デラックスさんはほかの番組で拝見していて「なんか素敵な人だな」と思っていました。理由はないですが直感的に感じるものがあって「なるほど、だから人気があるんだろうな」と。そこにちょうどオファーをいただいたので、快諾したわけです。以前は映画のためにテレビに出ていたようなものですが、今回は純粋に自分が言いたいことを言うために出ました。いろんな反響もいただきましたし、出演した意味はそれなりにあったと思います。
つい最近、別の深夜番組(※)にも出演させていただいたんですが、そこではかなり突っ込んだ話ができた。「テレビって、観るよりも出るほうが面白い」んですよね。最近は、そういう結論にたどりつきました。
※TBSテレビ「オトナの!」。7月中に放送予定。
http://www.tbs.co.jp/otonano/
――なぜ、心境が変化したんでしょうか。
「避けていてもしかたない」というか……。メディアが好きではないからといって、一切関わりを断つ、というのは、社会との接点を減らすことにもつながりますよね。それはいかがなものだろうと。また、メディアを批判しているだけでは、結局何も変わらないということに気づいたんです。それなら、出ていって自分の考えを発信したほうが、そこに意味が生まれるんじゃないか。メディアにしても社会にしても、これからは、きちんと関わり方を考えていかないといけないと思ったんです。
――以前、メディアが苦手だった理由は?
やっぱり、人であれ、情報であれ「消費」する傾向が強過ぎるし、そのスピードがあまりにも早いと思うんですよ。もちろん、観ているほうにも責任はありますけれども、世の中の「思考停止」を助長している面はあると思います。たとえば、今日「これが大事です」とニュース番組などで流れていたことが次の週には忘れ去られている、という状況がある。それが嫌で、あまり関わりたくないと思っていました。
ただ、一方で、いまだに社会に与える影響力が非常に大きいのも事実ですよね。ネットの影響力が高まっているとはいえ、まだまだテレビのほうがはるかに影響力が大きい。ですから、大事なのは関わり方なのかな、と思っています。
――「こういうメディアに出たい」という気持ちはありますか。
そのとき「出たい」と思えば引き受けますし、とくにどのメディアがいいとか、嫌だという区別はありません。ただ、テレビのコメンテーターなどはお断りするかもしれないですね。なるべく自分の思想の部分を、きちんと伝えられるような形で出たいという気持ちはあります。

■その場で生まれる会話を大事にしたい

――紀里谷さんは「FREEWORLD」というメディアを運営されてインタビュアーもされていりますが、コンテンツを作るときに心がけていることはありますか?
いわゆる予定調和にはならないようにしています。自分がインタビューを受けていても、あらかじめ答えが予想されていて、その流れに沿って進められる場合がほとんどなんですが、それだとやっぱりインタビューをするほうも、受けるほうもつまらないと思うんです。
俺自身、「映画監督だから」「フォトグラファーだから」とカテゴライズされた上で質問されるのが、あまり好きじゃないからなんですが、事前に相手をカテゴライズして決めつけないようにしています。
――確かに媒体によっては、安易にカテゴライズしているときもありますね。
「ご出身はどちらですか? 海の近く?じゃあ、きっと海も大好きでサーフィン好きですよね?」と言われたら「いや、勝手に決めつけないでくれ」と思うじゃないですか。聞いているほうに悪気はないでしょう。でも、「あなたはこうですよね?」というスタンスで来られると、その瞬間にその人と一緒にいる意味が薄れていくような気がしてしまいます。
情報ではなく、その場で生まれる会話を大事にしたいという思いはあります。ですから、「FREEWORLD」のインタビューでは、その人の細かいバックグラウンドを事前に細かく調べて、それについて聞いたりということはしないですね。もちろん仕事について聞くこともありますが、それよりも、思想や生き方の部分が知りたい。今まで、津田大介さんや堀江貴文さんにもインタビューさせていただいていますが、会うまでは、あえて細かい事前知識のないまま臨みました。要するに、俺にとっては、その人が今まで何をしてきたかはわりとどうでもよくて、「何を考えているのか」「どうしてそう思うのか」ということのほうが知りたいんです。
みんな、魚屋には魚のことばかり、大工には家の建て方ばかり、医者には医学のことばかり聞こうとしますよね。でも、「普段何を考えて生きているんですか?」と聞いてみたら、予想外な答えが返ってくるかもしれない。そういうインタビューのほうが面白いんじゃないでしょうか? ただ、当然こういうやり方だとインタビュアーの資質も問われます。相手の話を聞きながら、その瞬間、瞬間に変化していくような柔軟性がないといけないと思います。

■相手を決めつける姿勢からプラスのものは生まれない

――メディア側を擁護したいわけではないですが、「読み手や視聴者にわかりやすく伝えること」を重視すると、どうしてもカテゴライズしてしまう部分があるのかなと思いますが……。
極端な話、「あなたにとっての幸せは、きっとこうですよね?」というような決めつけた質問はちょっと失礼ですよね。まっさらな視点で「あなたにとって幸せはなんですか?」という話をすればいいんじゃないかと思うんですよ。先回りして答えを知ろうとするんじゃなくて、素直に聞いてみればいいだけのことなんじゃないかと。
結局、バックグラウンドによって人を外側から決めつける姿勢は「あなたはキリスト教徒だから」「私はイスラム教徒だから」という、偏見に満ちた姿勢につながっていくわけですよね。人に偏見を持って対峙することをやめない限り、世界は平和にならない。そもそも、純粋にもったいないと思います。人を「日本人だから」「中国人だから」とカテゴライズして捉えることで、自分の可能性を閉じてしまうわけですから。
でも、たとえばテレビなら、24時間をどう切り分けていくか、限られた時間をどう使うかという問題がある。1時間の取材をしても放映するのはほんの15秒だったりする。ですから「できるだけカテゴライズする」「視聴者が好きそうなコメントだけを拾う」ということになりがちです。そこに話し手の意図はほとんど尊重されないわけですから、やっぱり非常に不健全だなと思います。ただ、先ほども言ったように、最近は「どうすれば、その中で効率的に伝えたいことを伝えられるか」ということを考えています。

■日本の若者の「聞く力」が弱いのはなぜか

――テレビの「テロップ文化」って日本独特のものですよね。
中国や韓国にもあるみたいですが、少なくともアメリカには、まったくないですね。あれもあまりよくない風習だと思っています。「聞くより読むほうが早い」のはわかるのですが、テロップがあることで、人の話をきちんと聞かずに「ああ、こういうことね」とわかったつもりになってしまう。
日本の若い俳優さんたちに演技を教えるときに感じるんですが、人の台詞をきちんと聞ける人がすごく少ないんですよ。じゃあ、どうしているかというと、自分の台詞しか聞いていない。人の台詞を聞くにしても、自分の欲しい情報しか聞いていない。全体的に聞く力が弱まっているなあと感じます。
テロップだけでなく、インタビューを受けていても、ニュースで誰かがインタビューされていても同じことを感じるんですが「はじめに情報があって、確認するために聞いている」という感じがするんです。こうした(聞く力が必要とされない)環境に慣れてしまった結果なのかなと思います。そう考えると、やっぱり怖いですよね。

■情報だけでは、人は変われない

――紀里谷さんはニュースなどは普段、ご覧になっていますか。
もちろん見ますが、新聞・雑誌を含めて、これが情報源と決めているメディアはないですね。それで自分の何が変わるわけでもないと思っています。情報を追いかけること自体、あまり重要視していないんです。たとえば、5年間、俺が刑務所に入っていたとしても、それで何かを失うわけでもない気がする。情報で自分の何かが変わるかといえば、何も変わらないんじゃないでしょうか。どんな情報を得たところで、自分という人間の本質には、何も関係がない。何も変わらないと思っています。
――「情報で人は変わらない」ということですか?

これはすごく当たり前のことだと思っているんですが、「情報」だけでは人は変われないし、成長できない。何かそこに「気づき」がない限り、毎日摂取する大量の情報は、その人にとってただのジャンクフードでしかないと思うんです。ある出来事を知ったことで自分の中に新しい観点や思想が生まれる、ということもあるかもしれないけれども、それは稀有な例だと思うんです。「気づき」は、真剣な対話からしか生まれません。人との対話にしろ、自分との対話にしろ。
じゃあ、真剣な対話って何? と、みなさん、思うかもしれませんね。何も「難しい顔で深刻な問題について話し合わないとダメ」ということじゃないんですよ。たとえば子どもの質問って、いつも真剣ですよね。「お父さん、なんで雲はいつも形が違うの?」なんて質問をするとき、そこには真剣な疑問がある。そうすると「そうだね、お父さんはこう思うんだけど……」と、父親だって真剣に答えざるをえない。
いくら高度な知識や情報のやりとりをしたところで、自分は変わらないし、成長もしない。ある種の真剣さを持って自分や人と「対話」することでしか、人は変われないということです。

【今週のキリヤ語録】
「情報」だけでは人は変われないし、成長できない。何かそこに「気づき」がない限り、毎日摂取する大量の情報は、その人にとってただのジャンクフードでしかないと思うんです。




【写真について】vol.02 July 11 2014


前回は「撮ること」は時間を止める行為である、そして写真を撮るときには自分も相手も嘘がつけない、という話をしました。

写真を撮るときには、自分も真実でなければいけないし、向こうも真実でなければならない。雑誌のインタビューなんかでも、似たところがあると思います。文章を読めば、書いた人の人となりがわかるし、インタビューを受けているときだって、質問の仕方やあいづちで、相手がどういう人かは、如実にこちらに伝わってくる。

相手を目の前にしたときに、自分がどれだけ真剣に向き合っているか。

それが作品の質を左右するのだと思う。

実際に「相手をこじ開けていく」ようなインタビュー、撮影というものがあって、やはりそうした気迫があるかないかが、作品を通して伝わってくるんです。

自分をさらけだすことも必要ですが、一番大事なのは「覚悟」。

どこまで相手をこじ開けられるか。こじ開けられないのか。

それでも「できるだけこじ開けてみせる」という「覚悟」が、最終的にモノを言う。

これはモノをつくる行為においては、当たり前の前提なんですが、今は、そういう「覚悟」がない、必要性にも気づいていない人たちがあまりに多い。

世間には「お金をもらっているかそうでないかがプロとアマチュアの境目である」といった価値観がある。でも、この「覚悟があるか、ないか」のほうがよっぽど大事なんじゃないか? と思います。

せっかく関わるなら「覚悟」したほうがいい。「覚悟」してやろうぜ!

俺はいつも、そう思っています。

(続く)


菜食主義 July 11 2014


■高野山での滞在がきっかけ
俺は、今でこそゆるい形で菜食主義を続けていますけど、5年間くらいは、肉も魚も食べていなかった時期がありました。分類で言うといわゆるヴィーガン (Vegan)。ただ、完全なヴィーガンは卵も食べないんですが、俺はときどき食べていたかもしれませんね。菜食主義も国や人によってさまざまで、乳製品と蜂蜜は食べることにしている人とか、逆にまったく動物性のものは摂取しないとか、いろんなケースがあります。
最初のきっかけは、あるお坊さんに紹介してもらって、高野山に2日間行ったんです。そこで精進料理が出て来て、、、それでどうということもなかったんですが、山を降りてきたあとに、大阪の街で昼ごはんを食べようと思ったんですね。そうしたら肉も魚もまったく食べる気がしなくて。始めたのは、そこからです。

■断食も試したが……

一年以上前になりますが、仕事でプラハにいたときに、撮影の合間に2週間くらい断食をしたこともありました。仕事しながらはできないので、あくまで休みの時期に。一時はそういう領域にまでいったんですが、だんだん「潔癖症」みたいな感じになっていくのが自分でもわかったので「このへんでやめよう」と思いましたね。
釈迦が修行していたときの逸話に、こういうものがあります。釈迦が苦行をしていたときに、川を渡る船の上で、人が琴を調弦していて「あんまり糸をはりつめると、美しい音が響かないし、糸が切れてしまう」と言われた。釈迦はそれでハッとするわけですね。そして、どこからか女の子が現れて乳粥を差し出してくれた。ほかの人はダメだというのも聞かず、釈迦はそれを飲むわけです。まわりは堕落したと釈迦をなじりましたが、そうじゃない。釈迦は、苦行をするよりも、普通に生きていく上で生きるためのヒントを見つけていくほうが大事だと悟るわけです。菜食主義も同じで、とことんつきつめるだけじゃダメだなと思うようになったんです。つきつめていくと、まわりの人に対しても、だんだん菜食主義を求めるようになっていってしまうんですよ。ピュアリストになっていってしまう。
今は焼肉に誘われたら一緒に行きます(野菜ばかり食べてますが)し、コース料理で肉の料理が出たら、きちんといただいています。すでに命をとられたものがあるのだから、捨てられるよりは、いただいたほうがいいですよね。それを一様に「私はベジタリアンなので、肉は食べません」と拒絶するのも、いかがなものかと思うんです。
玄米だけしか食べていない、修行僧のような生活をしていた時期もありました。「それさえやっていればいい」のである意味楽なんですが、どんどん自分の世界に没入していくので、まわりとの関係性が保てなくなっていくんです。自分が「社会と感覚がずれている」という感覚は今でもありますけど。

■生きていく上で「しなやか」でありたい

――紀里谷さんは「自分が社会とずれている」という感覚があるんですか。
それは、すごくありますね。別にどっちが上か下かとかじゃないんです。とにかくまわりの人に同調できないし、共感できない。「なんで、そんなことで争うんだろう?」「なんでそんなことで大騒ぎするんだろう?」「なんで、そんなことにしがみつくんだろう?」とか、いろいろと疑問に思うことが多いんですよ。
あらゆるモノに対する欲が、昔と比べてなくなってしまったからなのかもしれないですね。「このワインが最高で……」とか言っている人としゃべっていると、自分が違う星に来てしまったような感覚になるんですよ。かつては自分もゴージャスなスーツとかを着ていた時期もあったんですけれども。
「いっそのこと世間から離れて出家しようか」と考えたときもありましたし、実際、カリフォルニアで、山ごもりに近い生活をしていたこともありますが、やっぱり、そうなると、一方で社会に対して「閉じていく」んですよね。そういう生き方は、ある意味柔軟さを欠いているなという思いもあって、出家とか、そういう道はやめました。
「行動」によって生き方を模索する、思想を表現するということが、自分の中では、もうちょっと違うんじゃないかと思い始めています。ヨーガや菜食主義もそうですが、どうしても純粋な「作法」になってしまう部分があるじゃないですか。俺は、自分が瞑想したければすればいいし、ベジタリアンになりたければ、なればいいと思うんですよ。でも、それを自分やまわりに強制した途端に、しなやかでなくなってしまう。つきつめていくと、ヒエラルキーのようなエリート意識が出てきてしまう。
ですから、今は、そういう「作法」にこだわるより「自分との対話」をもっと大事にしたいと感じています。自分が、自分自身とどれだけきちんと会話するか、そこで何を感じるか。大事なことって、その一点に尽きるのではないでしょうか。


旅 July 11 2014


■複数の視点を持つことの重要性

――紀里谷さんは10代で渡米され、そのあとヨーロッパやアフリカを放浪された経験がありますよね。「旅」は日常だったのではないかと思います。紀里谷さんにとっての「旅」とは? また、最近は海外でノマド生活を送りながらビジネスをする人も増えていますが、「国をまたいで移動する」ということの意味をどう考えているか、お伺いしたいです。
俺は15歳でアメリカに行ったんですが、確かにそれまでと比べて、価値観ががらりと変わりました。そのあとの旅を含めて、いろんな経験を通して経た教訓は「結局のところ、外国に行くこと自体が重要なのではない。違う視点を持つということが重要なんだ」ということ。ひとつのことに対して、違う角度から見る視点を養うということはとても重要だと思うし、複数の視点を持たないまま生きていると、やはり思考停止に陥りやすいと思います。
旅をすると、今まで「こういうものだ」と思っていたものが、まったく違って見えてくる。ただ、そうした気づきを得ることが大事ということなので、そんなに世界中のあちこちに行く必要はないんじゃないかとも思いますね。
なぜなら、複数の違った視点を持つときに、2つの視点を持つのと10の視点を持つのとでは、それほど変わらないと思うんです。2つ目の視点を手に入れたときに、10個目の視点までだいたい想像がつくんですよ。ですから自分自身、今はそれほど「海外に行きたい」とは思わなくなったというのが正直なところです。

■海外にはもうあまりひかれないが、美女が多い国には行ってみたい

――今の紀里谷さんにとって「旅」は特別なことではないのでしょうか?
普段から、仕事で海外に行くことも多いせいか、特別なことではないですね。冷めたスタンスに見えるかもしれないですが、もう行ったことがなくても「だいたいこういう感じだろうな」ってわかってしまうところがあって。場所の好き嫌いも、ほとんどない。最近は「なんでもあり」というか「人間って、どこでも生きていけるんだろうな」という感覚がずっとあるからかもしれないですね。
それでも、まだ行ってみたい場所はあります。3箇所あって、ひとつはブラジルのリオ。リオ・デ・ジャネイロで有名な町ですね。あとはバルト3国と、コスタリカ。というのは、「女の子が可愛い」って噂があるから。外国というよりは、美女目当てです(笑)。
ちなみに、俺は旅行にスーツケースはもっていきません。いつも持っているバッグより少し大きめのバッグがあって、それひとつに最小限のものを詰めていく。やはり若いときのほうが、ゴージャズな旅をしていましたね、きちんとスーツを着こんでていたし、一流ホテルに泊まるような旅をしていた。

■今の自分を破壊するために、人は旅に出る

――人は何のために「旅」をするのだと思いますか。
やっぱり、現在の自分を破壊するため、凝り固まった自分から逃れるために、みんな旅に出るんじゃないでしょうか。
「旅」は物理的に距離をおくことで、日常のしがらみから逃れられるということがありますが、そもそもしがらみというのは、自分が「こうあらねばならない」と思いこんでいることによって生まれているものですよね。たとえば「今の環境でうまくやっていかなきゃいけない」とか「まわりの人とうまくつきあっていかなきゃいけない」とか。そういう価値観って一度壊さない限り、どこまでも同じしがらみが追ってくるんですよ。
ですから、旅をする中で「自分をどれだけ破壊していくか」ということだと思うんです。レコードに喩えると、どんどん傷をつけていって、溝をはずれていくようなイメージ。きれいな音楽は奏でられないかもしれないけど、その溝からは逃れられる。そういう作業だと思います。「こうじゃなきゃいけない」という思い込みに縛られることが、人間にとって一番不幸だと思うので、やっぱり若いうちにいろんなところに行くべきだと思うし、いろんな人と話をする経験はしておいて損はないと思いますね。

■移動することで自分にとって本当に必要なものが見えてくる

――個人的に好きな映画、というだけなんですが、旅がテーマの映画と言えば、『モーターサイクル・ダイアリーズ』(チェ・ゲバラの若き日の南米旅行記をもとにしたウォルター・サレス監督作の映画。2004年公開。)を思い出します。あの映画も旅をする中で、主人公が人生観を変えていく話ですよね。
ああ、確かに。「自分探しの旅」という言葉がよくありますが、結局、旅をすることで、みんないらないものを捨てに行っているんだと思うんです。
というのも、旅をすると、自分が必要だと思っていたものが、違う土地に行ったら「本当は必要なかった」というようなことが、ありありとわかってくるんですよ。それまで非常に大事だと思っていたものが、非常にくだらないものに見えたり、逆により大事に見えてきたりもする。しきたり、歴史、文化を含めて、自分にとって「必要なもの」と「不必要なもの」を整理できる気がしますね。
国のリーダーを絶対的な存在として崇拝する北朝鮮の人たちも、ほかの国の価値観にふれたらきっと「あれ?」と思うはずですよね。モノや肩書きに対する価値観もそうです。今まで自分にはブランド品のバッグが必要だと思っていた女性が、アフリカに旅したら「本当はこんなもの全然必要ないな」と気づくかもしれない。「○○商事」と書かれた名刺を出せば日本ではどこでもちやほやされた人が、インドに行ってみたら名刺を出しても「だから何?」という対応をされて、愕然としたりとか。そのとき、あなたは何も持たないひとりの人間として、どうふるまうのかってことだと思うんです。
あなたが旅に出たとして、どんな国に行っても共通して「これは自分にとって大事だな」と思うことが、おそらくあるはずなんです。どんどんいらないものを捨てていって、それでも残るものがある。それを、すごく大切にしてほしい。
「自分探し」をしている人は、自分が求めている「本当の自分」は、もともと自分の中にいるってことを思い出したほうがいい。いらないものを削ぎ落としていけばいいだけなんです。
みんな、すっぱだかでいいじゃない――と俺はいつも思うんですが、パンツが脱げない。みんな、つい肩書きとか地位とか、名誉にこだわってしまうんですよね。「人から好かれなきゃいけない」とか「評価されなくてはいけない」という思い込みもある。それはコンプレックスになり、やがて恐怖の感情に変わります。
でも、旅に出ると、そうした恐怖から少しだけ解放される。その安息を求めて、人は旅に出るんじゃないでしょうか。
ただ、そうした旅の効用は、あとから振り返ってわかることであって、とくに若い人は純粋な衝動であったり、何かにかきたてられて旅に出ている人がほとんどでしょう。でも「それでいい」と思う。なぜなら俺もそうだったから。
たとえ自分で旅の目的がわかっていなくても、旅に出たときに、知らない路地、知らない部屋、知らないカフェに身を置いて、そこで何かしら感じることがあるはずなんです。「この気持ちいい感覚は何だろう」と。
だから、どこに旅したっていい。さらに言えば、別に旅になんか出なくたっていいんです。何かをきっかけに、その人が少しだけ自由な生き方ができるようになれるのなら「それでいいんじゃないか」と、強く思います。


【写真について】vol.03 July 18 2014


前回は、撮影では相手をこじ開けていくことが必要。そのとき、自分がこじ開けてみせる、という「覚悟」が最も重要だという話をしました。

さて、前回を受けて「実際に撮るとき、人物を撮るときと風景を撮るときでは姿勢は違いますか?」という質問をいただきました。

これについては、じつはそんなに違いはありません。
「撮る行為」に相手の意思が介在するか、しないかというだけ。
ただ、昔は大きく違うと思っていました。
おそらく、どこかの時点で自分の中で対象の捉え方が変わったんだと思う。

以前は、写真を撮っているときに自分が相手を「所有」しているという感覚があった。「どんな人が来ても、俺の世界に引きずり込んでやる」という姿勢だったし、出来上がったものも、そういう作品になっていた。

けれど今は、まったくそうは思いません。
「所有しよう」「自分の世界に引き込もう」なんて、全然思わない。

むしろ「自分から相手の世界に入っていこう」としています。

なぜそうなったのか? ――自分でも、よくわからない。

もしかしたら、映画を撮ったからそう思うようになったのかもしれません。
写真にしろ映画にしろ、自分がコントロールできない領域までいくと「これはもう、手放すしかないな」と思う。

すべてコントロールするのではなくて、最後の最後でふっと「手放す」んです。
そうするとうまくいく、ということが、だんだんわかってきました。

(続く)


「本分」 July 18 2014


――紀里谷さんは、CMの仕事も手がけられていますが、CMにはかなり明確にマーケットがあってターゲットがありますよね。映画やオリジナルの作品を作るときと、当然感覚は違うと思いますが、何か葛藤が生まれたり、作っていて「難しいな」と思うことはありますか?

これはCMに限らず、すべてのクリエイター、すべての仕事に共通するんですが、「自分の本分は何なのか」という問いかけを自分自身すれば、それほど迷わないと思うんですね。
まず、受け手の人たちとコミュニケーションをとりたいのか。それとも必要ないのか。ふたつ選択肢がある。
「コミュニケーションをとらない」という場合は、できた作品はあくまで個人の楽しみとして自宅で観ていればいい。皮肉じゃなくて、そういう作品づくりも、ありでしょう。
しかし、もし受け手とのコミュニケーションを前提とするなら、作品をシェアするということを念頭において作らなければいけない。
そのとき、その作品を通じてあなたは何をシェアしたいのか、ということをきちんと自問自答しなくちゃいけない。
「 自分がどれだけかっこいいかを見せたい」のか「見る人を楽しませたい」のか、それとも「変化させたい」のか。
それで、CMを作るときにはかならずクライアントがいます。彼らは何かしら解決したい問題を抱えているわけです。たとえば「自分の商品を売りたい」「企業のイメージをよくしたい」といった問題。
そうなると、クリエイターはやはり医者のような立場に立って考えないといけない。
「あなたの問題(望み)は?」という問いに患者さんが「この商品を売りたいんです」と答えたときに、「じゃあ、俺の知っているやり方で売りましょう」と提案する。
それが、CMにおいての自分の本分だと思っています。
つまり、あくまで商品を売るためにクリエイティブの力を使うということ。効果がある、と思ってやっているわけですから、CMを作ったあとにどれくらい商品が売れたか、なんてことも当然注視している。
そこで、自分のエゴを出して「いや、俺はこういうものを作りたいので、こっちでいきましょう」と押しつけるのは、医者が患者の病気を無視して手術をするということと同義なので、それはやっぱりおかしいんですよ。
でも、クリエイターの中にはそこのところをごっちゃにしてしまってる人も少なからずいますね。自分の本分は何なのか、という問いに立ち戻る必要があると思います。

――クライアントがいる仕事で自分のエゴを出すのは違う、ということですが、とはいえ「すべて相手の言うとおりに作る」というわけではないんですよね?

たまに、そうやって逃げてしまう人もいますね。「言う通りにやりました。これでいいんでしょう?」というスタイル。
俺はクライアントの「この商品を売りたい」という希望はもちろん聞きます。ただ「こういう見せ方をしたい」という形で依頼してくる場合もある。その見せ方が「違うな」と思えばそう伝えますし「それだとかっこ悪いな」と思えば、その通り伝えます。
クライアントの言うがまま作る、というのは、いわば医者が患者の望み通りに薬を出すようなもの。明らかにこの薬は効かないと知っているのに、開き直って出す、というのは医者の本分じゃないですよね。御用聞きじゃないんだから(笑)。
患者を健康にするのが本分じゃないですか。その本分から外れちゃう人が結構いるんですが、戦わなければいけないところは戦うべきだと思っています。
クリエイターは、どんなときも自分の本分を忘れちゃいけないと思います。 これ、簡単なようで意外と難しいんですよ。


空気を読むということ July 25 2014


――今日は「空気を読む」ということについてお聞きしたいです。たとえば、会社の中の小さなプロジェクトの会議で、なんとなくまわりの「空気」に気おされてつい意見を言えなかったりということがあると思うんですが……。まわりの空気を読みすぎて疲れてしまっている。この「空気」ってどうすれば破れるんでしょうか。

確かに、そういう風潮はありますよね。今の日本の大人たちが空気を読み合うのは、もう仕方ないんじゃないかな、と思うところもあります。それに「空気を読む」というのは、よく言えば思いやりがあるということ。海外に行けば日本人は「空気を読むのがうまい。素晴らしい」とほめられることもあるわけじゃないですか。だから難しいんですよ。ただ、成長過程にある子どもたちが、そういう大人の目線を気にして、空気を読んで行動してしまうのは、どうなのかなと。

――紀里谷さんも、普段、自分が空気を読んでいると感じますか?

空気を読んで行動しているときも、もちろんありますよ。

――空気を読んでばかりだと、どういう問題が起こると思いますか。

空気ばかり読んで行動してしまう人って、結局「ずるい」んですよね。つねに損得勘定で行動しているところがあるんじゃないかな。
自分にとってのプラスとマイナスを計算した結果「よし、こっちのほうがラクで得だから、長いものに巻かれておこう」という判断をしているということ。一番大事なはずの「自分がどう考えるか」ということを棚上げにしてしまっている。
そういう人がどんどん増えていくと、やっぱり恐ろしいことになると思うんです。
たとえば、「A」か「B」、どちらかの選択肢からひとつを選ばなければいけないときに、「今までみんなAを選んでいた」「そっちのほうがラクそうだ」という事実だけで、そういう人たちは「A」を選んでしまうわけですよね。
さらに、そういう人が一定数いると、ほかの人も、本当は「B」がいいと思っているのに「A」を選んでしまったりする。そうすると、誰も「A」の道がいい、と思っていないのに100%の賛成で「A」になってしまう可能性がある。政治においても同じことが起きる。国民の誰ひとり賛成していないような法律が可決される、という異常事態が起こってしまいます。

――とりあえずまわりの空気を読んでさえいれば、短期的にはそのほうがうまくその場をやり過ごせますよね。でも、あとで大きいツケが回ってきたりします。なぜ、私たちは「その場をやり過ごす」ほうを優先してしまうんでしょうか。

やっぱり「自分」がないから、空気を読むんだろうと思います。そもそも、厳密に突き詰めて最後まで考えて行動している人が少ないような気がしますね。

■魂と頭脳の話

俺はよく「システム」の話をしますが、システムというのは、人間の頭脳が作り出したものですよね。どうも、人間の魂と頭脳の間に何か深い溝があるような気がするんですよ。その能力にかなり開きがあるんじゃないかと思うんです。魂と比べて、頭脳のほうが劣っている。

――魂っていうのは「あるがまま」という感じのイメージですか。

魂っていうと難しく聞こえますけど要は「心の声」ということ。「今日はカレーが食べたいな」とか。そういう純粋な欲求のことです。
要は頭で考えようとして、あれやこれやと理屈をつけていってもそんなに解決しないわけですよ。極論に終始してしまって、絶望にはまっていくことが多い。
魂では何が大事か、何が大事じゃないのかはわかっているのに、頭脳のほうが混乱を起こしてしている。そういう状況があらゆる問題の解決を遠ざけている気がします。
結局、頭脳ばっかりで、自分の本当の声、魂の声を聞いていないからそうなるんじゃないかと。「人間って自分の頭脳がかしこいって思ってるけど、そんなにかしこくないんじゃないの?」って思います。

――魂と頭脳があって、頭脳のほうが劣っているという話は面白いですね。

ここから、さっきの「空気を読む」という話に戻しますが、空気ばかり読んで行動している人って、頭脳のほうに従っているということだと思うんですよ。
わかりやすく言うと「よし、カレーを食べたいからカレーを食べよう」というのは、魂の声に従っているわけです。
でも「今日は土用の丑の日だからうなぎを食べなきゃ」とか「クリスマスだからケーキを食べなきゃ」というのは頭脳に従っている。ある意味、自分の欲求や行動がシステム(自分以外の規範、価値観)にからめとられている。
でも、魂の声に耳をすませば、頭脳で出た答えとは、まったく違う答えが出てくるかもしれない。「今日はクリスマスだけど、自分はお餅を食べたいんだ」とかね。
それを素直に表明することが「空気を破る」ということなのかなと。そこで出てきた答えを行動に移すために頭脳を使い、システムを使う、というのが本来のあり方だと思うんです。「クリスマスにおもちが食べたい。じゃあ、おもちを食べるにはどこに行けば買えるか、食べられるか」と、自分の魂の声に従って、目的を達成するために、システムを使うということ。そっちのほうが、すっきりしてますよね? シンプルで、わかりやすいじゃないですか。
自分の心の声を無視した状態で空気を読むから、問題がややこしくなるんじゃないかなと思います。

■自分がジャッジできないから、空気を読むしかなくなる

--話がまた少しそれますが、日本では、宗教的な話自体が、ちょっと日常から遠いところにある気がします。誰かが「生きる意味ってなんだろうね?」という話をしたりすると空気が読めない人のような扱いをされるところがありますよね。「そんなこと考えたことないよ」と言われてしまったり。

確かに、そういう話をすると「怖い」とか「宗教っぽいね」言われます。生きる意味について考えるってことは、そんな特別なことではないし、むしろまったく考えていない人は、思考停止に陥っているんじゃないかと思うけど。
むしろ普段から、そういうことをきちんと考えていないと、いざというときに自分で物事をジャッジできない。だから、何か起きたときに「まわりの空気を読む」しかなくなるんですよ。
日本人は、そういう本質的なテーマについてきちんと話し合うことをずっと避けてきたからこそ、オウム真理教の事件みたいなことが起きてしまったんじゃないかな。

――宗教自体についてはどう思いますか?

釈迦やキリストを尊敬しているし、彼らのもともとの教えは素晴らしいと思いますよ。けれど、それが教会や宗派といったものによってシステムに変えられていくことよって、いろんな妙なことが起こってしまう。十字軍遠征とかもそうですが、どこかで何かを間違えて争いや殺し合いにつながっていく。それは、やっぱりシステムというものが引き起こす、すさまじい弊害だと思うんですよ。
キリスト教は初めにイエス・キリストという人がいて、彼の思いがあったところに教会というシステムが、何というか「ハイジャック」していったわけですよね。仏教も同じです。信者の間で宗派にわかれて殺し会ったり、骨をめぐって争ったりという悲劇が無数に起こっている。
素朴な疑問で「なんで?」と思いますよね。だって、まったく意味がわからないじゃないですか。彼らが信じている宗教の開祖は「争え」「殺しあえ」なんて、ひと言も言ってないはずなのに。むしろ開祖たちの祈りや願いにそむくような、真逆なことをしていたりする。
悪いのはシステムであって、釈迦やキリストが悪いわけじゃない。やっぱり、人が宗教というシステムを盲信してしまった瞬間に、思考停止になってしまう部分がある。そうしたときに、やっぱり悲劇が起こると思うんですよ。

――宗教を信じていても、思考停止にならない人もいるのでは?

体系化されたものがあって自分の判断をそこに委ねている時点で、ある程度思考停止になってしまう部分はあると思います。その意味で、システムとしての宗教には、やっぱりあまり意味を感じません。

■思考は孤独からしか生まれない

――紀里谷さんは空気を破れる人、のように見えるのですが。

「どうすれば俺みたいになれますか」って聞かれることもあるけど、別に俺のようになる必要はないと思う。なったらなったでいろんな問題が持ち上がるだろうし。
何度も言いますけど、「誰かの価値観に合わせる必要はない」んですよ。重要なのは自分しかない。
俺は、別に空気ばかり読んで生きていたって、その状態が自分の幸せだと感じている人は別にそのままでいいと思いますよ。個人のレベルにおいては。
でも、そうじゃない人、つまり自分で空気を読むことを選んでいたくせに、あとで「空気を読んでばかりでは、よろしくない」みたいに言い出す人は「ずるいなあ」と思う。その行為が、もう「ずるい」と思うんですよ。敗戦後に日本がやったことも同じですよね。ほんの少し前までは「鬼畜米英」なんて言ってたのに「あれは間違いでした」と。
今もそういうずるい人は大勢いるなと思います。一方で、「しょせん、人間っていうのはそういうものだよね」とも思う。
だからその問題はいったんおいといて、自分が自分自身を好きになれるかどうかが一番大事なんじゃないかと思います。

――システムによって人は思考停止になるというお話を伺ってきましたが「思考停止にならなくて済むシステム」って作れないものなんでしょうか?

やっぱり、誰かや何かに委ねるんじゃなくて、やっぱり自分ひとりで立たなければいけないし、考えなくてはいけないと思う。
当然、そこには相当な孤独が待っている。みんな、そうした孤独に耐えられない。むしろ「孤独になるくらいなら、まわりに流されていたほうがいい」という人がほとんどだと思います。
だからこそ、世界がこんなふうになってしまう。遠く離れた国で罪のない人たちが爆撃されて、たくさん死んでいるにもかかわらず、無視されてしまう。ありとあらゆる問題は、そこにつながっている気がします。
「そう言われても、やっぱり孤独は怖い」という人もいるでしょう。そういう人は、別にまわりに流されようが空気を読み続けようが、別にいいと思う。本人が幸せなのであれば。
でも、「孤独になりたくないけど、まわりの空気も読みたくない」っていうのは、やっぱり、ずるい。 空気を破りたければ、人間はまず、孤独にならないといけない。俺はそう思っています。