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コラム June 2014
June.01 2014
Sun Jun 01 2014 00:00:17
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コラム June 2014


「ありのまま」 June 6 2014


■『アナ雪』の大ヒットで何に驚いたか
――『アナと雪の女王』が大ヒットしていますが、キリヤさんはごらんになりましたか。
ものすごい反響ですよね。この間、自分の家で観たんだけど、じつは途中で寝てしまった。いや、つまらなかったわけじゃなくて(笑)、たまたま疲れていただけ。だから、中身について俺はどうこう言える立場にないんですが。
けれども、俺は映画の内容とはまた関係ないところで、主題歌の『Let It Go』について話したいと思います。

ありのままの 姿見せるのよ
ありのままの 自分になるの
何も怖くない 風よ吹け
少しも寒くないわ
『Let It Go』

この歌を聴いて涙を流して感動するっていうのは、どういう心の状態なんだろうか。
それだけ普段の日々を「ありのまま」に生きていないってことだよね。俺は「自分を肯定できていない人が、こんなにたくさんいるんだ!」と純粋に驚いてしまったわけです。
「ありのままでいい」という歌詞に心動かされるくらい、みんな――とくに女性は、今の社会で「ありのまま」に生きられてないってことだよね。自分を肯定できていないからこそ、感動するんだと思う。
『アナ雪』が生まれたアメリカにしたって同じで、女性蔑視がまだ根強く残っている。ディズニー映画が女性監督を起用するのだってこれが初めて。
そもそも、アメリカで女性が選挙権を獲得したのは1920年。まだ100年経っていないんですよ。女性の大統領も一度も出ていない。オバマ氏が大統領になるまでは「黒人が大統領になるか、女性が大統領になるかどっちが先か」ということがずっと言われていたけど、結局、黒人が先だった。
ひと昔前までは養育権もないし、財産の管理もできないし、本当に女性の権利が限られていた。1900年代当時の婦人運動活動家の伝記なんかも読んだことがあるけれど、彼女たちの努力の積み重ねは、本当に並大抵じゃない。
じゃあ日本はどうか? 女性に参政権が認められたのは第二次世界大戦後だから、アメリカよりももっと遅れてますよね。強制労働や慰安婦みたいな問題も、たかだが100年以内に起きていたことですよ。今でもインドなんかでは街中で女性が強姦される事件が起きていて、警察があんまり動いてくれなかったりするわけです。世界レベルで見て、女性蔑視の文化は現在も続いているし、日本も、まだまだ例外じゃない。

■僕らは無数の抑圧の中で、その存在に気づかないまま生きている

――(日本にも)まだまだ強い女性差別があると?
「ない」って思いますか? そんなことないよね。やっぱり根強いと思う。たとえば、あなたがある会社にお客さんとして行ったとき、お茶が出されるでしょう。そのとき、お茶を持ってくるのは男性、女性?
――女性ですね。
どんな会社でも、そうでしょう。僕はそれが心の底から不思議なんです。「なんで?」と。「女性が持ってきてくれたほうが、純粋にうれしいから」なんて言うけど、その価値観は、改めて考えてみるととても奇妙だと思う。「お茶を持ってくるのが女性でなければいけない必然性」って、まったくないよね。
水商売の仕事だったらわかるよ。六本木や銀座のクラブにいる女性が、きらびやかな格好をしてお酌をし、男性をもてなすのはわかる。「その役割を果たすのが女性でなければならない必然性」がある。逆に新宿のホストが女性客をもてなすのもわかる。そこにも必然性がある。でも、その必然性がないテレビの中や会社の受付に、同じシステムが入り込んでいるのは、異様な光景に思える。男性の僕から見てもね。
テレビの真面目なニュース番組にしたって、必ず司会者の横にはきれいな女性がアシスタントという名目で微笑んでいる。ああいうのって、奇妙だよね。「なんで女性じゃなきゃいけないの?」「なんで美人じゃないといけないの?」と思うよ。
結局、社会の中にそういうシステムが暗黙のルールとして存在していて、女性のほうも無意識に受け入れてしまっている。それが積もり積もって抑圧になって、心に重くのしかかっているんじゃないかな。

■「感動」の基準を他人にゆだねてどうするの?

――どうすれば「ありのまま」に生きられるんでしょうか。
すごく根本的なことを言うと「素直に感じること」ができているかってことですよね。
映画、音楽、セックス。何でもいいけど「素直に感じる」ってことは人間としてすごく重要なこと。でも、今はすべてが情報のやりとりで終わってしまっていて、自分の感情を素直に感じることができていない。そういう人が増えているなって思います。つまり『アナ雪』にしても、情報に支配されている人は「みんなが観に行っているから見に行こう」とか「みんなが歌っているから歌ってみよう」と思ってしまうわけでしょう。
『アナ雪』で感動した人たちを責めるつもりはなくて、自分が感動したならそれはそれでいい。あまのじゃくになれ、って言っているわけじゃない。でも、映画にしてもファッションにしても、自分で「これがいい」と判断できない人が多すぎる。小学生くらいの子どもであればみんなが「いい」と言うものを好きになるのはよくあることだけど、大人でもそういう傾向が強い。
ありのままに感じられないということは、自分に「素直に感動する」ことを許してないということ。きっと、素直に感情を抱くのが「恥ずかしい」という気持ちがあるんだろうね。
「すごいな」とか「面白いな」と思っても、自分でもよく分からない不安から、その感情に蓋をしてしまっている。たとえば「この感動がまわりに認められなかったらどうしよう」とか「世間一般の価値観とずれていたらどうしよう」という、不安だよね。
誰かが「いい」と思ったものじゃないと、安心して感動できない――これって、一種の病だと思うよ。でも、第三者の価値観に頼って物事を感じている限り、ホンモノの感動って得られないんじゃないかと思う。

■子どもの頃の自分に語りかけてみればいい

――キリヤさんは「自分は、ありのままに生きている」と思いますか。
俺だって無意識のうちに嘘をついている所がまだ沢山あります。
僕らは赤ん坊として生まれてきて、その時点ではまっさらな自分というものが確かに存在していたはずでしょう。ところが、育っていく過程で、まわりから「ああしなさい、こうしなさい」と言われ続けて、本来の自分とは違う人格を形成していくわけです。
よく「自分のことが好きになれない。嫌いなんです」と言う人がいるけど、それはひとりの人の中で、人格が分裂してしまっているということですよね。もともとの自分が「作られた自分」のことを「嫌い」と言っているということ。
ほとんどの人間は、心の中にふたり以上の「自分」を持っている、ってことだよね。あなたも。もちろん、この俺もです。
「お金持ちになって大きな家に住まなきゃダメだ」「自分はこうでなければいけない」と思っていたとしても、本来の自分――どの自分が本来の自分かなんてわからないけど、別の自分は「そんなものいらない」と言うかもしれない。
僕も15歳でアメリカに渡ったときは「ひとかどの人間になりたい」「違う自分にならなくちゃいけない」という強い思いを抱いて行った。そのときの自分をものすごく否定していたんです。
それで「自分がなりたかった自分になれたか」と言えば――なろうとしたけど、なれなかったね。でも、今は「なれなくてもいい」と思う。一度は自分を否定したとしても、最終的に「これでいいんだ」と思えるかどうかが大事なんじゃないかな。
子どものころの自分を想像して、語りかけてみればいいと思う。幼稚園の頃の自分が目の前にいたとして、「お前、そのままじゃダメだよ」と思いますか?「いや、お前、そのままで全然オッケーだよ!」って思うじゃない。今の自分だって同じことです。でも、どうしても人間って、今の自分に対しては否定をしたがる。「ありのまま」に生きたかったら、今の自分のことをもっと肯定してあげることが大事だと思う。

【今週のキリヤ語録】
「ありのまま」でいたいって言いながら、往々にして僕らは「ありのまま」ではいられない。みんな、ビビリで嘘つきなんです。


若者の自殺について June 13 2014


■日本の若者が抱える生きづらさについて考えてみた
――今日はちょっと深刻なテーマです。「若者の自殺」について聞いてみたいと思います。つい先日、こんなニュースが流れました。
【自殺者数4年連続減=2 万7000人、若年層は深刻】
【20代死因の5割 自殺する若者の複雑な精神状態】
とくに、大学生が就職活動の失敗など、一度のつまずきで死を選んでしまうということが社会問題になっています。いろんな事情もからんでるだけに、なかなか解決策が見えないようにも思えるんですが、紀里谷さんはどう思いますか?
俺は彼らの気持ちが、すごくよくわかりますよ。俺自身、「自殺したい」と思ったこともある。何ていうんだろう、社会に対して「やってられない」みたいな気持ちは昔からありました。でも、俺は何とか死なずに生きてこれた。何が違うのか、と言えば別に何も違わないと思いますけど。やっぱり、自殺を考えるほどの生きづらさを抱えている人は、その生きづらさの正体を、一度きちんと見つめてみたほうがいいと思います。
就職や受験といった一度の失敗で「死にたい」と思ってしまう人がどういう状態にあるのか、ということを考えてみると、やっぱり今ある「システム」をゆるぎないものとして捉え過ぎなんじゃないかと思います。
「就職しないと生きていけない」「この大学に受からないとまわりから認められない」「会社をクビになったら、自分の人生はおしまいだ」というふうに、自分の中で他者からの承認が非常に大きな割合を占めていて、それ(他者からの承認)がないと生きていけなくなっているということだと思うんです。
日本には武士の「切腹」という独特の風習があって、世間さまに顔向けできないような失敗をした人が、死んでお詫びする、みたいな形で自殺をしてしまう例は現代でも、ありますよね。基本的に、日本は他者からの承認を重要視する風潮がある。つまりは、自分の内面の価値観が、「世間」の評価や「システム」に沿った形で、形成されているということ。
みんなが信じている「システム」自体が、本当はまやかしなんです。でも、ゆるぎないものとしてまかり通ってしまっているから、生きづらさを抱える人がものすごく増えている。

■「システム」の外にも選択肢はあるということ

かく言う俺だって、昔は「まわりの人たちから承認されたい」という強い欲求がありました。それこそ、誰もが幼稚園、小学校の頃から「友達に認めてもらいたい、受け入れてもらいたい」という欲求が、ある程度あるわけじゃないですか。しかし、それがずっと続くとどうなるか。どこかではじかれてしまってまわりから「承認」が得られなくなったときに、自分の価値がなくなったような気がして、自殺してしまったり、あるいは犯罪に走ったりしてしまう。
就活の失敗なんて、たかだか企業というある団体に入れなかっただけの話じゃないですか。社会人=「責任ある大人の集団」に入れなかったと思って、落ち込んでしまうのかもしれないけど、そんなもの、いわば、まやかしなわけです。必ずしも企業に入る必要もないし、入れなかったからといってその人の存在が否定されたわけではない。
いわば、わかりやすい就職、成功をして「人から承認されて生きていく」のが、世のメインストリームとして認識されている。皮肉なことに、そう思い込んだ人たちによって、その「システム」はより強固になっていってしまう。しかし、メインストリームから外れたときに、そこには違う人生があるんだということを、きちんと知らないといけない。
――やっぱり守られてきた「システム」の中で生きたほうが楽だから、そこにしがみついてしまうのでしょうか。その「システム」は企業であったり、組織であったり、教育であったり、市場だったりすると思うのですが。
おっしゃる通り、楽でしょうね。「システム」の外に出た途端に、ふるまいも発言も、その責任が個人にかかってきますから。しかし、若者の自殺が増えている、というのは、やっぱりその「システム」に対する息苦しさの表れであり、悲鳴だと思いますよ。
――仕事も、多かれ少なかれ既存の「システム」と折り合いをつけながらやることが多いわけですが……。若いビジネスマン向けの週刊誌に「もはや仕事したくない病は国民病である」という主旨の見出しがついた記事を見つけました。原因はさておき、確かにそういうムードはあるなあと。
そもそも、今は「なんのために、仕事しているのか」が見えにくいんですよね。俺自身、自分の仕事を振り返って、果たしてこれでいいのかなと思うこともあります。
時代的な背景もあるかもしれません。高度成長期は「家族を養って食っていかなきゃいけない」「みんなで豊かになろう」という明確な目標があって、頑張っていけました。しかし、今は「豊かになろう」と言われても、そこそこ生活できてしまうという状況がある。働くことが、生きていることに直結していないんですよね。
「何ために仕事をしているの?」と聞かれて「自分のためです」と迷わず答えられる方もいるでしょう。そういう人にとっては、仕事は、あくまで「自分のために頑張るもの」ということになりますね。
でも、個人的には、人間って意外と「自分のため」だけには生きられないし、そんなに頑張れないと思ったりもします。だって、極端な話、自分という存在がなければ頑張らなくていいってことじゃないですか。「自分のために」は限りがあると思うんです。
だから、もう少し広く視野を持ってみてもいいと思う。知らず知らずに、自分が望まない「システム」にからめとられているのにも関わらず、その現実に対して目をふさいでいる可能性だってあるかもしれないんですから。

■嫌われてもいいから正直に生きよう

――「システム」から自由になるのは、基本的に難しいことのように思えます。折り合いをつけていくしかないと思うのですが……。どうすれば、私たちは幸せになれると思いますか。
まず、今ある思い込みを捨てて、正直になったほうがいいと思いますね。もともと、小さな子どもって、生きてるだけですごく幸せそうですよね。社会のことがなにもわかってなくても、いい顔で笑ってたりするわけじゃないですか。みんな幸せだったはずなのに、なんでいつのまにか不幸になってしまうのか。みんな、大人になるにつれて、「こうでなければいけない」といういろんな思い込みを積み重ねていって、不幸になっていく。不幸になることを学習しているんですよ。「そんなこと言ったって、子どもみたいな感受性には戻れない」? ――そうかもしれない。でも、本当は戻れないっていうのも思い込みなんですけどね。
どうしようもなく生きづらさを抱えているような人は、「子どもの頃の自分に戻る」くらいのつもりで、今ある人間関係や仕事に対する思い込みをいったん捨てて、自分に正直に向き合ってみたほうがいいんじゃないでしょうか。
小さな子どもは嘘がつけません。きれいなものを見たら「きれい」と言うし、嫌なものを見たら「嫌だ」と言う。天真爛漫じゃないですか。
前回、「ありのまま」ということについてお話しましたが、みんな、なぜか「自分に正直に生きたら、まわりの人たちに嫌われるんじゃないか」と思っている。そりゃあ、中にはあなたから離れていく人もいるかもしれない。でも、生きていけないなんてことはない。みんな、正直に生きることを怖がりすぎている。自分で自分を縛って、不幸にしているのは、じつは自分自身なんです。

■「情報」や「価値」でしかつながれない世の中

――私たちは、もしかして、素直に感じる能力が減退しているんでしょうか。
ネットの影響も大きいと思います。大量に情報を消費することで、そうなっている部分はあるかもしれない。いい絵を見ても素直に「きれいだなあ」じゃなくて「この絵は有名な○○の作品で、時価二十億円の価値があるから素晴らしいですよね!」とか。そういう「情報」や「一般的な価値」でしか、つながれなくなってしまっている傾向はありますよね。
人と人がつながるために本来重要なのは、情報じゃない。衝動や感情。わかりやすく言い換えれば、愛情ですよ。今の世の中には情報だけが溢れすぎていて、愛情が足りない。それはネット上のやりとりに表れている気がします。みんな、損得勘定が激しいし、基本、ギブアンドテイクだよね。「すべてに価値がないとダメ、自分はその価値に対してしか評価をしない」という風潮がある。
ツイッターなんかで誰かをほめることを「ギブ」とすると、ネットでは見返りが返ってこないから、損した気分になる人もいるんじゃないかな。逆に匿名で人をけなしたりするのは、いくらけなしても自分は損しない。罵倒することで優位を感じたり、イライラをぶつけることでスッキリするから、どうしてもそっちの方向に向かってしまうんでしょう。

■個人の生き方には国家のあり方が映し出される

正直、日本って世界の中で「国家としてどこに向かってるのか」よくわからない。「戦争をなくす」とか「代替エネルギーを手に入れて石油依存の経済から脱却する」とか、そういう長期的で世界に貢献するような目標がないですよね。安倍首相は、第一の正義のように「経済成長」を目標として掲げて続けているけれど、今さら経済成長したところで、それは薬が切れた麻薬患者が麻薬を手にするのと同じことなんじゃないか。しょせん、一時しのぎでしかないような気がします。
そういう意味では、2020年の東京オリンピックも、今のワールドカップも一時のお祭りでしかないように見えてしまいます。盛り上がっている人たちに水を差すつもりはありませんが。それで私たちの未来がよくなるのか、というと、ちょっと疑問です。
個人は国家の鏡のようなものだと思います。「日本が国家としてどこに進んでいきたいのかがよくわからない」からこそ、「何がしたいのかよくわからない」個人も増えている。国家の方向性が見えないから、自分たちの進むべき未来も見えない。――そう言うと、みなさんは「国が変わらない限りダメじゃないか」と絶望的な気分になってしまうかもしれません。でも、個人がそれぞれ「変わりたい」と思えば、国のあり方だって、少しは変わっていくかもしれない。俺はそう思っています。

【今週のキリヤ語録】
みんなが信じている「システム」自体が、本当はまやかしなんです。でも、ゆるぎないものとしてまかり通ってしまっているから、生きづらさを抱える人がものすごく増えている。




クリエイターを志す人へ June 20 2014


■日本の「アート」をめぐる環境について
――今回のテーマは、若いクリエイターへのメッセージという意味を込めて、日本のクリエイター、アーティストたちが置かれている環境について、紀里谷さんはどう思いますか。駆け出しのクリエイターにあまりやさしくないというか、決してベストな環境じゃないと思うのですが。
俺は思春期のほとんどをアメリカで過ごしていたので、アメリカの環境が当たり前だと思っていました。ですから、日本に帰ってきて、やはりアートシーンのあり方が違うと感じましたし、その状況に対してもどかしさを感じたことも少なくない。「音楽や映像、アートの世界全般において、なぜアメリカで起きたことが日本では起きないのだろう」と。
おそらく、日本と欧米では、「アート」というものの位置づけが大きく異なるんだと思います。欧米の人が言う「アーティスト」と日本人が言う「アーティスト」のイメージにも、大きな隔たりがある。
「アート」という言葉の中には、本来、哲学や生き方という意味も入っているんです。けれど、日本では、作詞も、作曲もできない、歌もきちんと歌えないような人が「アーティスト」と言われてしまいますよね。誰かの批判をしたいわけではないですが、そういう大きな違いはあると思います。

■欧米では「アート」が人々の身近に存在している

「アート」というと、芸術作品のような意味に聞こえるかもしれないので、「クリエイティブなもの」と言い換えてもいい。つまり、単純に、日常の中でみんな映画をたくさん観ているし、音楽も聴いている。絵にふれる機会も多い。そのへんにある雑誌をめくって見ても、グラフィック・デザインのレベルがみんな高い。日本では、オーディエンスが、実際に作品にふれる機会が少ないことが一番大きいのではないかと思います。ニューヨークでは、多くの美術館が時間帯によって無料で入れたりする。美術館に行って西洋絵画の美しさにふれたりすることが、特別なことじゃない。市民に広く開かれているんです。
――アートを職業にしていない人、普通の老若男女でも「アートを楽しむ心」を持っているということですよね。日本だと、そういう人の数は、確かに限られるかもしれないですね。
欧米における「アート」は、日本における「お笑い」をイメージしてもらうとわかりやすいかもしれないですね。それくらい、誰もが、日常的に親しんでいる。逆に、アメリカには日本のようなお笑い文化はないんです。
クリエイターの人口も欧米のほうがはるかに多い。アメリカで映画制作をしたときにも感じたんですが、映画監督にしろ、カメラマンにしろ、役者にしろ、ミュージシャンにしろ、人材自体、ものすごくたくさんいます。絶対数が多いのは分母が多いので当たり前ですが、人口比率で考えても、日本の数倍はいるのではないでしょうか。
その原因を考えると、やはり小さい頃から映画や音楽、アート全般に親しむ機会が多いから、そういう職業を目指す人が多い。ハードルが低いということだと思うんです。だから、クリエイターの層が「厚い」んです。日本では、教育の過程で、歴史的背景や哲学的なものを含めた「アート」というものにふれる機会が圧倒的に少ないと思いますね。だから、誰かとファッションなどについて話しても、どうも底が浅いように感じてしまう。

■時間をかけて「アート」に関わることの意味

子どもたちを見ていても、正直「ニューヨークの子どもたちのほうが、はるかに豊潤な感性を持っているんじゃないか」と思うことはあります。おそらくですが、幼少期から見ているものの、聞いているものの豊かさが違うんだと思います。
こういう比喩はちょっと乱暴かもしれませんが、人を野菜と見立てた場合「有機農法で育てた野菜」と「化学肥料を使って育てた野菜」くらいの違いはあるんじゃないでしょうか。大人たちが、いろんな手間を省いて、効率的に育てようとしているような気がしてならないんです。
しかし、アートを鑑賞する目、感覚のようなものは、時間をかけないと養われない。ファストファッション、ファストフード一辺倒で育ったときに、服や食に対する豊かな感性がなかなか育ちにくいのと同じですね。
さらに、日本では1990年代くらいから、ここ20年くらいの傾向だと思うんですが、非常に「情報」に重きが置かれるようになったな、という実感があります。自分自身の感情や感性よりも、とにかく世間に流布する「情報」のほうを重視するような風潮がある。素直にアートを楽しむような感覚は、残念ながら、以前と比べてますます失われていっているのではないでしょうか。
あとは、アートの素晴らしさを伝える、質の高い「メディア」が少ないというのも大きな要因だと思います。
少しはあるでしょうけど、選択肢の少なさを見ると「ほとんどない」と言っていい。もちろんアメリカのテレビでも、くだらない番組はたくさん放送されています。けれど、一方でディスカバリーチャンネルやPBSといったすぐれたチャンネルがあって、質の高い番組を観ることができる。日本にもNHKがありますが、一部に限られています。また、取り上げるのも、能などの古典芸術で、現代美術や近代美術はあまり取り上げられない。量としては、まだまだ足りていないという気がします。
時間と手間とお金をかけて、たくさんの絵画や映画や観ることは「効率的なことではない(だから、余暇の趣味として楽しめば十分)」と思っているのかもしれない。しかし、人間にとって「アート」は、本来、生きることそのものとつながるような、根源的なものであるはず。俺はそう思っています。

■若いクリエイターたちに伝えたいこと

確かに、日本はクリエイターが育つには、いい環境とは言えない。でも、自分の才能を伸ばしてクリエイターとして活躍するかしないかは、最終的には本人次第です。マーケットという視点で見れば、日本を飛び越えて海外に行ったっていいわけですから。
日本で「アート」の話をすると、だいたい「その仕事で食べていけるんですか」という話になりますよね。「きちんと職業にできないのなら、やる意味はないのではないか」ということ。それこそ、若いクリエイターたちからも、そういうニュアンスの質問を投げかけられる。けれど、「食べるためにやりたい」わけじゃないだろうと。
一番大事なのは、あなたは何を表現したいのか、ということ。
「役者になりたい」――それはわかった。でも、役者になって、何を表現したいのか。「人に笑顔を届けたい」なんて答えが出てくるかもしれないですね。でも、それなら、その手段は役者じゃなくてもいいんじゃないのか、という疑問も湧く。自分が表現をしたいのか、それともツールとして表現を使いたいだけなのか、というところを少し考えてみてほしいですね。
若い人たちに「表現する人間になりたいのですが」と相談されることは非常に多いのですが、よくよく話を聞いていると「何かを表現したい」んだけど、肝心の動機の部分が欠けているという場合も、よくあります。そういう人に伝えたいのは、まず、「自分の感情を大事にしてください」ということ。
たとえば、あなたがあるニュースを見て、怒りがこみ上げてきたとします。そうしたら、その怒りをきちんと認識しなくてはいけないし、その怒りを大事にしなければいけない。その感情が原動力になって、クリエイターは何かを表現するわけじゃないですか。その感情が、何より大事な「花を咲かせるための種」なんです。
自分の感情を、日々自分で感じ取っていなければ、表現なんてできません。日本の社会では空気を読まなければいけない場面が多いので、仕方ない部分もあるでしょうが、自分の感情に向き合わずして、スタート地点には立てません。
俺の場合は「憤り」です。世の中の不条理に対する憤りが子どもの頃からあって、それが、ものを作る原動力になっている。その中には切なさといったさまざまな感情もありますけど、「憤り」や「怒り」ですね。
喜びでも、悲しみでも、怒りでもいい。自分の中の感情に向き合わない限り、クリエイティブなものは生まれない。「花」は咲かないと思います。花を咲かせる手段――「表現するために、どんな道具や技法を使えばいいのか」という話は、そのあとに考えればいいことです。

■人生で感じてきたことすべてが、作品を作り出す原動力になる

――極論だとは思いますが「たまたま平穏な人生を送って感情が乱されることがなかった。何となく生きてきてしまった」という場合、クリエイターには向いていないのでしょうか。
それは違いますね。普通のサラリーマン家庭に生まれていたからといって、クリエイターになれないかというと、そうではない。
要は、本人が、どれだけ自分と正直に向き合うかだと思うんですよ。俺だって、アフガニスタンの内戦や飢餓で、実際に自分の肉親が死んだわけじゃない。テレビでそういうニュースを見たに過ぎません。しかし、自分が子どものときに先生から受けた仕打ちとか自分自身の現実とリンクして、そこに切実な悲しみや怒りを感じたわけです。自分がどれだけ、目の前のものから何かを感じられるかということだと思います。
どんなに波風のない普通の人生を送ってきた人であれ、やはりそこには、その人なりの感情がある。空や花を見て「きれいだな」とか、まわりの人に対する感謝であるとか、いいことも悪いことも含めて、どれだけ自分の感情を認めたのかということが大事だと思うんですよ。そうしないと、その人の中で「発酵」が行われない。
――「発酵」というのは?
ひとりの人間の中で、何かの作品が生まれる過程というのは「発酵」の過程に似ていると思うんです。葡萄が時間をかけてワインに変わり、人を酔わせるのと同じ。ある人間がいろんな情報を吸収して、いろんな感情を呼び起こされるわけじゃないですか。注視して、その感情を作品に変えていく、というプロセスが必要になる。
これは俺個人の考え方ですが、「どんな分野のアートであれ、その人という人間が作品にのりうつっていくもの」だと思っています。以前、刀鍛冶の世界で「人間国宝」と呼ばれる職人の方にお会いしたことがあります。刀鍛冶なんて、言ってみれば、厳密な科学の世界でもある。しかし、見ているとなぜか心を打たれる。それは、やはり作品そのものにその人の生き方が表れるからだと思うんです。
写真も、そういう部分がありますね。どういう生き方をしてきたのかが如実に表れてしまう。一番怖いジャンルです。撮られている人間のこともわかるし、撮っている自分のこともわかる。ここでも、自分の感情が大事になってくるんですが、やっぱり、その人の生き方というのは、結局、自分が感じてきた感情の積み重ねでしょう。
クリエイターを目指す人に一番伝えたいのは「自分を取り巻く現実に対していろんな感情を抱いたら、その感情を見つめること」。それを、まず大事にしてほしいということですね。

【今週のキリヤ語録】
喜びでも、悲しみでも、怒りでもいい。自分の中の感情に向き合わない限り、クリエイティブなものは生まれない。


Makuake June 27 2014

■Makuakeでの映像プロジェクトについて

――Makuakeでのプロジェクト(※)について聞かせてください。
※さあ、一緒に、世界を変えよう!現代の社会問題に鋭く切り込む映像プロジェクト始動!
https://www.makuake.com/project/kazuakikiriya/
このプロジェクトについては、有志で集まってみんなボランティアで動いています。大人の部活みたいなもの、と言えばいいのでしょうか。資金がやっと集まったという段階なので、活動そのものはこれからスタートするところです。
――立ち上げの段階から決まったメンバーで動いているんですか?
手塚浩二(イエリデザインプロダクツ株式会社 代表取締役)さんをはじめ、おもなメンバーは決まっていますが、ほかにも参加したいという人がいれば、参加してほしいと思っていますし、これからどんどん増やしていくつもりです。
もともと、このプロジェクトは「今の社会のしくみの外側から、しくみを変えるようなことができないか」「ほんの少ししくみを変えれば、もっとみんながハッピーになれるんじゃないか」という気持ちから始まっています。今の社会システムは「一部の人をハッピーにするために、たくさんの人たちが苦しむ」しくみになっている。それが現実だと思うんですよ。多くの人の犠牲の上に、少数の人の幸せがある、という状況。
企業の例でたとえると、会社であれば株主を喜ばせなければいけない。そのために、売り上げを上げて、経費の支出をおさえなければいけない。だから人件費を切り詰めて、スタッフには安い賃金で多くの労働をしてもらわなければいけない。そうやって、どんどん現場の労働はハードになっていくわけです。いわゆるブラック企業というのは、わかりやすく言えば、株主という一部の人のために多くの従業員を犠牲にしている面がある。もし、国内で安い労働人材が調達できなくなれば「海外から調達すればいい」という発想になるでしょう。突き詰めていくと、人材なんて使い捨てでいい、という話になる。
俺は、今の社会のしくみをこのまま続けていったとして、果たしてみんな幸せなんだろうか? と思ってしまうんです。これが100年前の話でまだ食糧も平等に行き渡らないような時代であれば、富が一部に集中してしまうのもまだわかります。けれど、いまやテクノロジーも進んでいるのですから、まったく違うやり方を導入したほうがいいんじゃないかと。
そこで、俺ができることはやはり映像を作ること。おこがましいかもしれませんが、この映像プロジェクトを通じて「じゃあ、みんなが幸せになれるしくみってなんだろう」ということを、もっと考えてもらいたいし、想像力を広げていっていってほしいと思っているんです。

■今、そこにある問題に気づくきっかけにしたい

Makuakeでのクラウドファンディングを使ったプロジェクトは、簡単に言えば、今まで視聴者だったみなさんが、クライアントの位置にいる。「みなさんが問題だと思っていることについて、俺たちは作品を作ります」ということです。ですから、普段カフェでコーヒーを飲んだり、ちょっと買い物をしたりするときに使う、何分の一かのお金でもいい。ほんの100円でもいいから、社会問題を解決するために投資してみてくれないか、と。
このプロジェクトの一番の目的は、問題提起です。多くの人が、その問題の存在に気づくきっかけになるような作品が作れたらいいと思っています。
第一弾のテーマは、「毛皮への意識を変える映像」。あくまでこれは最初の一例です。たとえば、海外の奴隷労働、貧困による就学困難、いじめ問題、自殺……。このほかにも考えていかなければいけない問題はまだまだある。今回と同じやり方で、いろんな問題をテーマとして取り上げていきたいと思っています。

■新しいしくみが生まれる可能性

普段のCM制作では、特定の企業がクライアントなので、やはりある程度その意向に沿って作る必要があります。しかし、このプロジェクトでは視聴者のことだけを考えて作ればいいので、ある意味普通のCMではできないようなこともできる。その分、クリエイティブの力量も問われるところはありますけれども。
今のCM業界も、やっぱり既存のしくみの中で、面白い作品が作りづらくなっている部分はあると思いますね。たとえば企業だと「株主のために」という基本の姿勢がどうしてもありますから、CMを作るにしても、みずから表現を規制してしまったりするケースも多いように思えます。
ですから、今回のクラウドファンディングのようなやり方でできあがった作品が観た人に感動を与えて、世界中に配信されて「これはいいね」と言われたら、それはとても素晴らしいことですよね。
逆に、あとからスポンサーになってくれる企業も現れるかもしれないですし、その企業のイメージはよくなるかもしれない。今はまだ理想の話でしかないですが、もしそうなればCMを作る「新しいしくみ」ができていく可能性もある。俺はそう考えています。

■「消費」の向こう側にあるもの

俺たちは、普段の生活の中でいろんなものから目を背けすぎだと思うんです。たとえば、スーパーに並ぶ肉のパックひとつとっても、すき焼き用の牛肉を見て「おいしそう!」と思いますよね。でも、「じゃあ、牛が屠殺されるところを見ることができますか」と言ったら、ほとんどの人はノーと言うでしょう。しかし「おいしそう!」と言えてしまう。それって一体どういうことなんだろう? と。
「肉がスーパーで手軽に買えるのは、毎日牛がどこかで殺されているから」というのは、単純明快なロジックです。しかし、俺たちは、その簡単なロジックすら意識しないで「○○産はおいしい」なんて言って、買っているわけですよね。これは別に「肉を買うな」という話じゃありません(笑)。俺自身はベジタリアンですが、会食などで料理として出されれば、食べるときもあります。伝えたいのは、やはりそこに決定的に「想像」が欠けているということ。肉に限らず、目の前の商品は、どこから来たのか。誰の手によって作られ、誰によって運ばれたのか。ただ、消費するだけじゃなく、そこに至るまでの道のりに思いを馳せてほしい。その過程をなかったことにしてただ消費するというのは、やはり、どこかで「思考停止」していると思うんです。
たとえば、いつも1000円で買っていたTシャツが、今年から800円になった。あなたは「安く買えて、ラッキー」と思うかもしれません。けれどそこで、「この200円の差はどこで帳尻を合わせているんだろう?」と不思議に思いませんか?
想像してみてください。海外の工場で、誰かが去年より安い賃金で働かされているかもしれない。睡眠時間を削られているかもしれない。その人たちは、おそらくあなたの知らない、縁もゆかりもない人でしょう。けれどもしも、知らない人じゃなくて、もっと身近な人、あなたの家族がその工場で働いていたらどうでしょうか? ろくに食べさせてもらえずに、過酷な労働時間で働かされていたら? ――「Tシャツなんて安く買えなくてもいいから、そんな環境で働かせるのはやめてほしい」と思いますよね。それこそが、きちんと想像した上で抱く人間の感情だと思います。苦しんでいる人が知らない人で、自分に関係がなければそれでいいのか、と言えば、決してそうではないでしょう。

■想像の射程を、自分で縮めることはない

――確かに、紀里谷さんのおっしゃる通り私たちは「思考停止」になっているのかもしれません。ただ、こう言うと悲観的に聞こえますが「みんな、自分が生きていくだけで精一杯なんだろうな」と諦めてしまっているところもあります。すごく極端なことを言うと、私は自分がアフリカや中東で起きている内戦を止められる、とは思えません。やはり、自分とあまり関係ない不幸については、どこかで想像することをやめてしまっているな、と思います。
なるほど。でも、人間の想像力に期待するのを諦めるというのは、今ある思考停止を、そのまま受け入れてしまうということですよね。そうやって、思考に自分で「壁」を作らないほうがいい、と俺は思います。その範囲でしか物事を考えられなくなってしまうから。
自分には世界を大きく変える力がない、というのは、確かに事実かもしれない。けれど、「想像しなくていい」理由にはならないと思うんですよ。それは「自分が想像しない、行動しないことを正当化するための言い訳に過ぎない」と思ったほうがいい。「○○だから、しかたない」というのは、やっぱり今あるシステムを受け入れることを正当化するための言い訳なんですよ。
――そうですね。「言い訳」と言われれば、確かにその通りかもしれません。
そりゃあ、個人がたったひとりで、アフリカや中東の内戦を止めるのは無理でしょう。俺だって無理です。でも、加担しないための小さな努力はできる。

■システムは変えられなくても、加担しない努力はできる

たとえば中東では、どうして内戦が起きていると思いますか? そこには、やはり石油利権があるからこそ、先進国が軍を動員して入り込んでいったわけです。ほかの国で起きている内戦だって同じです。ダイヤモンド、レアメタル、鉄鋼……。なぜ争いが起きるかというと、ありとあらゆる資源を搾取するための利権を取り合うから起きるんです。あらゆる工業には多く石油が使われているし、普段使っている製品にも石油が使われているんです。
100円ショップでの小さな買い物だって、たどっていけば遠い国の内戦とつながっている。俺たちはしょせん、力のない個人です。確かに遠い国の内戦を止めることはできません。けれど「過剰な消費をおさえる」ことで、そういうシステムへの加担の度合いを、たとえわずかでも減らすことはできる。俺は、モノをほとんど持たない人間ですが、やっぱり、そういうものにできるだけ加担したくないという気持ちがあります。
これは、耳をふさぎたくなるような言葉かもしれません。けれど、やっぱり言っておきたい。ただ安いものを買って消費しているだけでも、知らず知らずのうちに誰かを不幸にするシステムに加担している、ということ。まずはこの事実を、頭のすみにでも置いておいてほしい。そのシステムにいつか自分がからめとられないためにも、です。
人って忘れちゃうんですよね。3.11のあとに原発が停止して、あんなに節電を叫んでいたのに、その年のクリスマスにはしっかりイルミネーションがともっていた。「ああ、人ってものすごい勢いで忘れるんだな」と思いました。
日々の中で楽しいこと、面白いことのほうについ夢中になるのはしかたないでしょう。けれど、想像することをやめてしまうと、人間の世界はどんどん小さくなるし、表面的な幸せしか見えなくなる。だから、どこかで思考停止をやめてほしい。そして気づいて、想像してみてほしい。今、あなたが当たり前だと思っている、豊かなモノに囲まれた快適で便利な生活は、本当は当たり前じゃない。誰かの苦労や犠牲によって成り立っているんだ、ということを。

【今週のキリヤ語録】
俺たちはしょせん、力のない個人です。確かに遠い国の内戦を止めることはできません。けれど「過剰な消費をおさえる」ことで、そういうシステムへの加担の度合いを、たとえわずかでも減らすことはできる。